富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

fookpaktsuen2007-06-14

六月十四日(木)安倍三世メールで曰く
来年のサミットは、いよいよ私が、洞爺湖でホスト役を務めることになります。今年の成果を活かし、より大きな成果につなげていかなければなりません。
と、あと一年首相の座にある気かね、まったく。年金記録問題でも
態を前に進めることが、私の内閣の責任です。最後の一人までチェックをして、年金をお支払いします。そのために全力を注ぎたいと思います。
と「最後の一人」までの年金問題解決には来年のサミット開催より先まで年月要すと思えば安倍内閣小泉内閣より長期政権かしら。で、本日、上野の修理工房よりロンソンのライター、Varaflameが無事修理されて届く。一番の心配は「ガスは抜いてある」といってもEMSで郵送が拒否されるんぢゃないか、と。安堵。完ぺきなオーバーホール。さすがノガミだねぇ。日本はいいねぇ……と思えば、そういや文藝春秋七月号で山崎正和先生が、道徳は学校で教えるものぢゃない、学校で教えるべきは順法精神、伝統や文化で愛国心を強要するのはおかしい、と指摘。御意。本日、諸事忙殺され遅晩に帰宅。数日分の新聞通読。
▼新潮社の季刊誌『考える人』のメールマガジンからの孫引きだが吉田秀和氏が芸術新潮に1959年から連載した名曲300選を単行本にまとめ全面改訂され1966年に刊行された本から。
ある文明が、何かの意味で、それまでの安定をうしないかけ、つぎのあたらしい局面にはいろうとしているとき、わたしたちの過去を見る眼が、かわってくるらしいのである。あらゆる文明は、人類の歴史についての固有の解釈をもつ。あたらしい文明は、それぞれ、歴史をかきあらためながら生れてくる。それは、現在を改変し、未来をつくりだしてゆくだけでなく、過去にむかっても、あたらしい照明をあてる。あるいは過去をあたらしく見る目は、今日を改変する手につながる。
という思索的な記述もあれば、また
レコードは、親しい何人かのひとといっしょに、あるいは、ひとりきりできくものである、自分の部屋で。レコードは、自分が音楽をききたくなったときに、自由に、とりだしてかけることのできるものである。かつての王侯貴族は、それに似たことができたかも知れないが、しかし、その人たちでさえ、こんなに簡単な操作で、こんなに静かに、こんなにひとりっきりで、音楽の慰めと楽しみを味わうことはできなかった。レコードは、きくひとを、音楽を通して、見える世界からつれだして、ある見えない世界につれてゆく。そこでは、ひとは、何かから解放され、自由になる。レコードの醍醐味は、このひそやかな自由、この軽快な解放感にある。
という音楽の聞き手にとってレコードでの音楽の再生を実に明瞭に表わす。実にいい。
▼月曜日の信報に恩師・謝劍教授が「台独派と日本が合謀の台湾の醜劇」と李登輝君訪日を語る。謝劍氏の矛先はとくに李登輝君が「後藤新平賞」を受賞し「後藤新平と私」という講演をしたこと。日本の帝国主義的侵略にとって後藤新平の手がどれだけ血に塗られているか、と力説。後藤新平をけして全面評価はできぬだろうが当時の日本の国策の中で東京市長として、植民地官僚としてインフラ整備への慧眼は否定できぬ事実であり、声高にただ日本の台湾、中国侵略の手先としてばかり強調するにのも謝劍先生らしさ。後藤新平を罵倒するのは易しいが、かといって謝劍先生の出自たる外省人も台湾で何をしたか。謝劍先生にとっての大事は、結局のところ「台湾は中国に帰属する」ということだけ。そのために台湾にいながら台湾人の本性も理解できず。かといって大陸の中共も謝劍先生にとっては嫌悪の対象だから、そこで自分のアイデンティティを保つには台湾が中国に帰属していないと救われない、というのが典型的な外省人の性なのか。

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