富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

fookpaktsuen2006-10-16

十月十六日(月)夜中に下腹部に痛みあり目覚め小用済ますが膀胱のあたりどうもすぐれぬまま朝。知人には「花柳病ぢゃないの?」なんて今の若い人にはわからぬだろうが冷やかされ早晩に養和病院にて医師の診断受け恥ずかしい姿勢で前立腺検査などされ検尿。泌尿で悩むなど老いた証しか。悲しいかぎり。北角の街市漫ろ歩く。天天で豆乳購い、美味そうな青い枝豆をみつけ(一斤がHK$6、つまり500gが100円だ。冷凍の高価で不味い枝豆購っちゃいけない)、老人のせめてもの贅沢と中国国貨でかなり高価な鉄観音茶の茶葉購い、歩いていたら小腹が空いて聖羅蘭の豆沙包を一個購い頬張り、畏友・歐陽應霽君もテレビ番組で紹介の十三座牛什で煮込み購い、タイ食材の店でプミポン国王御真影まで購い帰宅。荷物増えタクシーに乗れば愛想のいい運転手、HK$29ちょうどの運賃にHK$40渡せば釣り銭をHK$10しか渡さず「勝手にHK$1のチップはなかろうよ」としっかりHK$1求めると憮然とした表情。劉健威兄ぢゃないが不愉快。帰宅して珍しく茶を飲む。医者に離尿剤と痛み止めもらい水分をたくさんとって盛んに尿を排出せよ、と言われたが、まさか麦酒だのジントニックのがぶ飲みは拙い。で、お茶。枝豆はさすがにお茶じゃ不味いので少しだけ麦酒。十三座牛什の煮込み、美味。ビビンバ。十三座牛什の煮込みとか屋台で隣に「あれ?」と中上健次都はるみが坐って焼酎飲んでいたりしたら最高だろう。食後もお茶のみ奈良の菊屋という菓子司の干菓子など頬張る。
▼安倍三世の「教育再生?会議」は天海祐希や故・三平師匠の女将さんなど本人なり事務所に理性あれば「折角のお誘いですが」と遠慮するのだろうが義家弘介ヤンキー先生かつては『世界』で教育での国旗国歌強制に意義唱えていたが変節か転向か何も考えていないのか「侍ジャイアンツ」の番場蛮的に「憎き巨人軍の腹の中に呑まれ、そこから巨人をぶっ潰す」(って結局は巨人の九連覇に貢献して死んでゆくのだが)腹づもりか、なんだかわからないが安倍三世の教育再生?会議のメンバーとなり担当室長に抜擢される。朝日新聞の「国旗国歌法は?」という取材に「公立なら国旗国歌法を順守する」と宣われるが(築地のH君の指摘通り)この「国旗及び国歌に関する法律」のどこにも順守するような事項なし。せっかく安倍三世の幅広い人選なのだからせめて「やはり強制ということがあってはならないと思います」とか陛下のお言葉を借りるくらいの知恵が欲しいところ。ヤンキー先生はこれについて更に「キリスト教の学校で(教師が)「私は仏教徒だから礼拝に生徒を出しません」ということがまかり通れば教育現場はメチャクチャになってしまう」とご高説。結局、北星学園余市高等学校キリスト教ならその立場、政府の諮問委員となればその立場、か。それにしても、この発言、期せずして、国旗国歌への態度が公立学校でまさに「宗教」として機能してることを明らかに。どうせなら自民党だから一人くらいやはりプロレスラーいれてほしかったところ。
週刊文春小林信彦氏が連載随筆で「まちがいだらけの昭和史」と題しキョービの昭和三十年代ブームに「ブームになるような時代か?」とまさにその時代が青春の氏が疑問呈す。で「過去の扱い方」で例に挙げたは戦後=焼け跡だと決まってテレビの画面では「リンゴの歌」が流れるが、キネマ旬報十月上旬号での小沢昭一氏と川本三郎氏が「リンゴの歌なんて当時、そんなに流行っていなかった」と指摘。小林氏もかねてからの疑問が「やはり」と。もう一つ、朝の連続ドラマに多い「戦時中の反戦的は庶民」の存在。
日本では、時代の風を感じて<先んじて動く>のは大衆であり、そそのかすのがマスコミである。(略)戦時中にも反軍的は人はいたが、沈黙を守り、それでも投獄された。大きな声で<反戦・反軍>を叫ぶ<庶民>なんていなかった。<庶民>は闇の米を探すのに精一杯で、そういうことではいかん、と当時の新聞は叱っている。
歴史、過去とはそんなもの。いくらでも後世勝手に語られ、それが歴史となる。
集英社新書永井荷風という生き方』って何かしら(松本哉・著)。新聞広告では「人生、老いてなお楽し。現代人に大きな勇気を与える、荷風の自由気ままな生き方。」という宣伝文句で「名作『?東綺譚』などで知られる荷風は、人に頼らず、ケチ、女好きなどと呼ばれながら自分らしく生き抜いた。今こそ知りたいその精神」として荷風散人の「散歩、日記、好色……荷風三種の神器」「男の料理とユニークな食事作法」「結婚を嫌った荷風の愛人一覧表」「日記『断腸亭日剰』に書かれた文明批評」など内容盛り沢山。この本がこの新聞広告の宣伝ほど安易とは思いたくないが、少なくとも荷風散人の日剰を読んだ者に、荷風散人の生き方が、そんな「老いてなお楽し」とは思えず。寧ろ全く反対。独り老いて窮屈な社会も楽しくないからこそ、ましてや「明治の子」荷風にとって震災後の東京は、文化は破綻し軍靴の足音が耳障り。厭世的に自分だけは楽しく生きようとした結果があれ、のはず。換言すれば、その不愉快さを記録に残したのがあの日剰。川本三郎の「荷風と東京『断腸亭日乗』私註」ですら荷風自身を直接に語らず荷風を通して東京の風景を語るほど一歩退いているのに。
▼中国の李先念国家主席夫人、王光美刀自逝去。享年85歳。1945年に北京輔仁大学で原子物理学で修士号修め米国に留学しシカゴ大学スタンフォード大学に学ぶ。当時、国共内戦の調停所執行部で中共側の通訳務めたことで奨学金支給停止され中国に戻り共産党所在地延安で党務専従。劉少奇と出会い48年に結婚。劉少奇の政治秘書18年務める。夫が国家主席に就任し1966年のビルマ訪問での、王光美女史のその容姿端麗ぶりは中共のファーストレディとして好印象与えたが、これに嫉妬したのが毛沢東夫人の江青。出自は大地主、原子物理学と英語に長けた容姿端麗の王光美が疎まれぬはずもなく文革では夫とともに走資階級として非難浴びる(写真は北京清華大学自己批判させられる王女史)。夫が殺され遺骨と対面する王女史。兄は光大実業公司の王光英氏。

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