富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

農暦七月初一日。晩に帰宅してドライマティーニ。地味な和食の夕食で金比羅さんの西野金陵酒造の「金陵の郷」なる大吟醸大吟醸は好きではない。香港のこの室温に長く放置してしまいずいぶん糖が出て焼酎の如き風味。日本のテレビは必然的にNHKになってしまうので時間的に夕食ではいつもNW9を見ることになる。どの事件の報道見ても「本来あってはならないこと」「あの人がこんな事件起こすなんて」のくり返し。世の中に「本来あってはならないこと」なんて存在せぬし「あの人がこんな事件起こすなんて」と言われても筒井康隆氏だったかの言葉だが自分が明日、殺人を起こすか起こさないかの確立は半々に過ぎぬ。事件が起きればキャスターが神妙な顔で語る「日本人が計画し、そして中国人が犯行に及びました」という言説の怖さ。サイードの指摘したところ。ライス国務長官レバノン訪問しブッシュ大統領の「暴力をやめよう」というメッセージを伝えました、って暴力団の組長から「暴力はやめよう」と言われても(……あ、これが脅しか)。香港鼠楽園の衰勢を執拗に追う者として日刊ベリタにリトルリーグ大会開催の記事送稿(こちら)。
▼小泉三世の靖国参拝。先帝のA級戦犯合祀不快のお言葉につき「それぞれ の人の思いですから。心の問題ですから。強制するものでもないし、あの人があの方が言われたからとか、いいとか悪いとかという問題でもない」と宣った小泉三世。これを世は不敬と余は言ったが、築地のH君は天皇を正しくも「人」と称したとは小泉三世こそ戦後最大の民主主義宰相ではないか、と。確かに。自民党もぶっ壊し、戦後日本の民主主義も完成か……。瓦礫の山、という噂もあり。
蘋果日報で李八方の頁でシンガポール国王・李光耀の自宅周辺の防備についてコラムあり。リー・クワンU国王は実施的に国王だが建前では市民であるし大統領でも首相でもないので「官邸」に住んでおらず、私邸。シンガポールの中心街オーチャードロードからちょっと入った歐禮思路(おそらくOxley Roadだとしたらこのあたりか)に国王の私邸あり。私邸だが国王級だから守衛がおり八方氏が通りがかりに記念にと私邸の入り口をば写真撮影せむとせば守衛に止められ、すぐに私邸内から「私服」の連中が現われ八方氏の身元確認した、というのだから私服は官憲か。八方氏の語るところによれば国王は建国前から(つまり弁護士として人民行動党立党の頃より)ここにお住まいで警備は厳重だが国王にしては(といっても人口的には横浜よか小さい)簡素なお住まいだそうな(簡素さこそシンガポールの国是。簡素と強権か)。但し香港の自称政治家Sir Donaldの如く節句のたびに記者をば官邸に招き入れ愛想うるでもなく内部については公開されず。いずれにせよわずか一年半の任期に旧総督府を巨額の内装工事せしSir Donaldはシンガポールの政治制度よか、このリー国王の住宅に対する廉しさこそ学ぶべき、と李八方。
朝日新聞小泉内閣推進せし「市場原理主義」について岩井克人氏の「資本主義と会社」なる主張掲載あり。現代の「カネが支配する社会」について岩井氏は産業資本主義の時代にはおカネを実業に投資すれば確実に利益が得られしものが「利益の源泉が、おカネでは買えない人間の頭脳に移ったことによって、おカネは確実な投資先を失ってしまった」わけで「だからこそ、少しでも良い利鞘を求めて、おカネが世界中を動き始め」「それが世に言う「金融革命」であり「グローバリゼーション」なのである」と見据える。資本主義は様々な欠陥や矛盾を抱えてはいるが当面、これを超えるものが生まれてこないのは「人間が自由を追求すれば必然的に資本主義的な活動(利益追求)が生まれてくるから」であり「その(資本主義の)欠陥ゆえに資本主義をを抑圧することは、そのまま自由を抑圧することになる」もので「好むと好まざるとにかかわらず我々はこれからも長く資本主義の中で生きていかざるをえない運命にある」とする。フランシス=フクヤマとはちと違う、この宿命感。そして、その資本主義の矛盾を保管するものが「倫理性」であり、その倫理性に支えられたものが「市民社会」と呼ばれるもので倫理の基本は「他の人間を自分の利益の手段としてのみ扱ってはいけない」もので「その大原則の上で初めて、対等な人間がそれぞれ利益を求めて、お互いを手段として利用することを認める契約関係が結ばれてゆく」とする。この倫理観、相互互助的な、余は日本でもっとConfrerieの意義が理解されていいと思うのだが、その大切さ。文科省が唱えるが如き実態のない「思いやりの心」だとか愛国心とか漠然としたことの教育よか具体的に社会秩序維持のための、資本主義社会維持のためのモラルとしてのこの倫理観をば教えることの大切さ、なのだが小泉三世にせよ大臣の竹中某、通産省出身の経済評論家などネオコン市場原理主義の品のなさ、でこの資本主義の倫理がわかっておらず。彼らの拙いところは資本主義社会の矛盾や問題を解決するのが市場原理主義や自由市場化と勘違いしていること。憲法学で樋口陽一先生が言っていることだが近代の社会(民主主義社会や岩井先生の視野にある資本主義社会)は矛盾や問題多きもので不完全とわかった上で、その社会を維持するためにどうしなければならないか、のルールを確立しそれを遵守することの大切。
▼同じ朝日新聞編集委員星浩君の語る「米国の陰」も面白い。日本という「独立国」は1950〜60年代に左翼対策として自民党と野党の一部に米国CIAから活動資金が濯がれ、04年に米国に対して「Show the flagなどと日本に圧力をかけるのはやめて欲しい」と田中均外務審議官(当時)がアミテージ君に告げると「日本政府は、業界の反対で市場開放などの政策が進まないと、いつも米国に『圧力をかけてくれ』と頼んできたではないか」と暴露され、現首相はエルビスプレスリーの猿真似。この情けない態。星君は、この「屈辱感から卒業するには、日本が主体的に変わるしかない」と漠然と筆を置くが、結局それが自主憲法改正とか愛国心に収斂されてしまうチープさ。憲法改正しても愛国心が培われても米国へのこの諂いから脱却などできぬ。むしろ屈辱感からの解放が「近代の超克」的に誤解される怖さ。本居信長くらいまで遡っったほうがいい鴨。