七月十五日(土)雨降らぬ嵐の如し。今週忙しくご公務続く。ただ、ふとアイデアに煮詰まり蔡明亮の映画『不散』DVDで観る。昨年の香港映画祭で観たが(不確か)あらためて名作と思う。映画というものへのオマージュ、会話など要らぬ実験性、映画館の現代的なる存在意味(ノガミの傑作劇場的とでも言おうか)、蔡明亮の映画でどれが傑作か、と言われば間違いなくこれを挙げたい。ところで、ふとこの日剰綴ろうと検索したら日本で蔡明亮の映画サイトに『楽日、迷子、西瓜』とあり、蔡明亮にこんな映画あったか?と思えば、これが実は『不散』『不見』と『天邊一朶雲』であると知る。確かに『不散』は台北の昔は流行った映画館の最終上映日の話で「楽日」であるし、『不見』も迷子の話、『天邊』は確かに西瓜がモチーフ、で邦題としては秀逸の部類。今月も地味に蔡監督と李康生が渋谷でイベントしたことなど知る。夕方、湾仔。帰宅して疲れて転た寝して夕食。鱈子のパスタと赤葡萄酒二杯。晩遅く尖沙咀。21時から科学館の講演廳にてベルトルッチ監督の『革命前夜』上映あり。いぜんから観たいと思ったベルトルッチ監督若干23歳の作品。ブルジョワで所詮、革命の前までにしか生きられぬマルキストの青年が主人公。二十年も前にN兄が自ら革命家名乗っても(裕福な医者の家の出では)いざ革命おきればギロチンにかけられる運命だからね、と自嘲しことふと思い出す。この若き理想と愛情の物語ぢたいに感動するほど豊かな感性など余にはないがAdriana Astiの美貌。Adriana Astiといえばなにせあたくしが最初に観たのは未成年の頃に『カリギュラ』で、次が再上映でのヴィスコンティの『ルードウィヒ/神々の黄昏』でございましょう、そりゃ『革命前夜』のAdriana Astiが清純に映るってなものでげすよ。そしてヌーベルバーグの時代らしさの斬新的なキャメラの動き。まだ若いベルトルッチなのに「マクベス」をば上映する歌劇場の場面が見事。この映画ぢたいは伊太利のパルマが舞台であるがミラノのシーンも多いので、一瞬、行ったことはないがこの歌劇場はスカラ座か、と思ったがAdriana Asti演じる夫人が「マクベスは去年、スカラ座で見たから、もういいの」という場面あり、すると映画のシーンはパルマのテアトロレージョかしら。マクベスの上映中に主人公の二人が歌劇場の廊下で逢引するシーンがいい。昼間DVDで観た『不散』も映画館の建物の構造が重要な要素だが、この二本が偶然にも「小屋」を巧みにモチーフに。それにしてもこの映画、日本での公開は驚くなかれ『ラストエンペラー』でベルトルッチが話題となり、その後とは……。それぢゃあたくしが見ていないはず。ところでパルマといえばサッカーなどあまり知らぬあたくしでも「ナカタ」が所属の蹴球チームがここであったことは存じ上げる。その「ナカタ」は(どうもカタカナで「ナカタ」と書くと村上春樹のカフカのナカタさん思い出すが、奇妙なところでは両ナカタさんに近いところもあり、か)今晩、テレ朝が引退記念特別番組二時間放映とか。読売巨人軍の悪口は赦されるが蹴球の「ナカタ」はナカタに感動した人かなり多いため、あたくしはコメント自粛。と言いつつW杯での試合終了後に「燃え尽きて」世界中が注目する蹴球場でかなりの時間、仰向けに臥しただけでも大したものだが、翌日の朝日新聞が一面トップでナカタ引退報じたことも(いったい何頁を費やしたのか)朝日新聞が地に落ちた記念すべきことで、あの朝日新聞のナカタ騒ぎも今日のテレ朝の独占「報道」見れば「さもありなむ」な話。週刊文春の「報道」によれば引退発表の翌日、実は日本じゅうが「ナカタ引退」に畏怖の念すら感じていたあの日、ナカタ選手ご本人はすでに欧州のどこだったか歴史都市で史跡めぐりしながらテレ朝の番組収録してた、ってんだから、さすが大家姐、立派なもの。夜中の弐時に空爆の如き落雷。
▼映画の行き帰りに読んでいた岩波書店『世界』七月号に(すでに八月号発売中)広田照幸氏(東大大学院教育学研究科教授)の「「安全対策」は私たちに安心をもたらすのか」という題で子どもの登下校時の安全対策をめぐる文章あり。秀逸。最近、子どもたちが誘拐や殺人など未曾有の危機に曝されていることが連日の如く頻繁に報道されるのだが、これは「増加する凶悪な少年」像が実は統計的にはまったくの錯覚であるように(1950〜60年代と比較すると現在の少年による殺人犯罪件数は当時の四分の一で推移)、「増加する子どもの被害」も虚構に近い、と広田先生。実は「他殺によって死亡する子どもの数は減少傾向にある」そうで「幼児や小学生が殺人事件の被害者になる数は1970年代に比べて三分の一乃至四分の一」なのが事実。しかしマスコミによる犯罪報道が現実の事件とは関係なく1990年代に入って増加傾向にあること(報道が、である)、しかも「凶悪」というキーワードが付加される記事が多くなっていることが、人々が「治安が悪化した」と感じることに影響与える。報道の量や質の方向により人々の「思い描く現実」!を形づくっており、大人は子どもらのテレビゲームなど批判して「バーチャルリアリティに生きている」などと言うが、実は大人が犯罪などについて思い描くイメージもまた同じ仮想世界。子どもが被害者となる犯罪で、昔と今と何が違うか、といえば、広田教授によれば、昔は「自らの手ではどうにもならないものとしての厄災(=危険)」であったものがキョービ「自らの行為で制御しうる、すべきものとしての厄災(=リスク)」になっており、「現代は、「いつでも、どこでも、どの子でも、登下校時に犯罪被害に遭いかねない」という「仮想現実」が、おびただしいメディア報道によって作られ」、そこでは「事件の局地性や例外性は無視されて、日本の社会全体が均質な「リスク空間」として感知されることになった」と。その不安が「全面的で恒常化した、リスク対応のシステム化の動き」となり「いつ、どこで起きるかわからない犯罪被害を警戒して」特定できないどこかで、ごく稀な犯罪行為を行おうとする不特定の他者をば対象になされる警戒。しかも逃げようのない危険が「リスク」に変化したことで「リスク回避」、犯罪被害の防止が可能となり、学校や行政に対して<責任>を求める。学校や行政は事件が起きた時の責任回避で臆病なまでに手厚い対応。そして、現在つくられてゆくシステムは「<安全・安心>を保証するどころか、逆に、<不安>を永続化する昨日を果たす」こと。うーん、フーコー的。一度動き出したシステムをば持続させるには「<不安>を増幅し、注入し続けること」の必要性。不安を歓迎する社会。本当の犯罪者は犯罪がおきるまで確定できぬから「不審者情報」がシステムを作動させる潤滑剤となる。警察もボランティアの防犯パトロールも具体的な犯罪者は見きわめられぬか「不審者」の情報受理件数や処理件数が活動実績となる。「不審者」発見が、近所と交流のない住民の洗い出しとなり、異分子は「日常生活を脅しかねない潜在的脅威」となり、監視カメラや個人情報管理など、過剰な<不安>固定する監視社会となる。お先真っ暗。とにかく、大切なことは「子どもが被害に遭う凶悪な犯罪は増えていない」こと。「子どもをめぐる環境はますます危険の度合いを強めています」なんてオバカなマスコミの報道に乗らぬこと。マスコミが何か言ったら「嘘だろう」と疑ってかかること。「危険な世の中」なんて大騒ぎしている人たちがいちばん実はキチガイで、<不安>に踊らされていたりする。
▼スナップ弐枚。一枚目は、かつて中国の田舎者、そして香港でも貧しさの象徴であったナイロン袋がオシャレ化して、仏蘭西風デザインなどあり。お洒落。続いてリチャード李澤楷君の「英語を勉強しましょう」のポスター(尖沙咀のMTR站にて)。ほんと「アンタにだけは言われたくない」。ところで“Let's Leran and Live”もスネークマンショー的に可笑しな英語。