富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

十二月廿一日(水)快晴。Nという在港の写真家に偶然お会いする機会あり。香港では特に香港の超高層建築物の写真撮影で著名で(こちら)Norman Foster卿の設計によるHSBC総行の写真や中国銀行ビル設計のI.M. Peiの写真集など(こちら)でN氏の写真を拝見できる。名 前は知らなくても建築に多少興味ある人なら「あ、あの写真」というものばかり。そのN氏がある建物の写真撮影の依頼受けその建物撮影中に遭遇したのだが、 てっきりその建物を所有する某団体からの依頼で撮影しているものと思い込み「その、まるで政府の建築署の公務員建築士が設計したようなつまらない建物よ り、同じ某団体が所有する建物ならむこうの建物のほうがデザイン的にいいですよね」と話すとN氏はその向こうに見える建造物をご存知なかったようで「あ、 あっちのほうがずっといい」と。N氏の写真はいくつも本で見せてもらった、というとN氏恐縮して「クライアントの依頼だから仕方ないがこんな建物は写真家 としても撮りようがない」とぽろっと本音。あとでわかったのだが依頼主はてっきりそのビルの所有団体だと思っていたら、その設計した建築事務所だったそう で余計なことを言ってしまった(笑)。晩にハッピーバレー競馬場でキャセイパシフィック航空のボックス席をおさえ競馬に行きたがっていた若いN君とA嬢を 招き競馬仲間の旧友B氏を誘い四人で競馬観戦とお食事。終わってB氏とバー Y。ハイボール二杯。話上手のB氏との談義は楽しいが午前零時前にはバーを辞し帰宅。
▼建築家のフォスター卿とI.M. Peiのことを書いたので丁度いい機会なので香港の建築家の話をいぜんから書こう、書こうと思っていてと途中まで書いていた話題を一つ。そのまえに『香港 風格』という「香港でもこんな本が出版されるようになったか……」と感慨を覚えてしまふほど建築や設計など好きな文人にはたまらない本があり畏友O氏がブ ログ(こちら)でこの本のことを取 り上げ而もO氏だらかちゃんと厳迅奇といふ、香港の中環ではフォスター卿とI.M. Peiに隠れてしまふが注目していないといけない建築家のことを書いている。貴重。新しい萬宜大廈が厳迅奇の建築だと知って驚いた。萬宜大廈(旧館)は香 港の建築史に残るべき近代の高層建築であったが惜しまれるなか老朽化で取り壊され(その時にわざわざ畏友のカメラマンM氏に館内の撮影をお願いした)そう いう由緒ある建物の取り壊しのあとに建った建物など普通は味も素っ気もないか奇を衒っただけで面白みなどないのだが厳迅奇の萬宜大廈はその商業大廈として は恐ろしく効率の悪い贅沢な間取りや異様なほど没個性としたことが逆に個性的な外観側面など建築的には非常に面白い。而もビルの所有会社のセンスが光り商 業ビルにありがちなチープなテナントを一切いれず個性溢れるテナントが多いのも特徴。音響店や飛行機のミニチュア模型の専門店など。旧館には紅鑽石?だっ たか有名なレストランがあったが新しいビルには上海から小南国飯店を招き繁盛している。というわけで香港で特に中環で厳迅奇の建築は注目されるべきなのだ が、もう一人、忘れてならないのがEric Cumine(1905〜2002)なのだ。殆ど名前の知られていない英国人建築士だが彼の遺した建物が中環で先日取り壊されたフラマホテル、マカオのリ スボアホテル、Clear Water Bayの邵氏(ショウブラザース)映画撮影所行政楼……と並べたら、どうでげす、O氏なら垂涎どころか鼻血だ。Eric Cumineは上海生まれ。父親が蘇格蘭人で母親人の母との混血。父はShanghai Mercuryという当時上海で発行されていた英字紙の発行人(この新聞のことだけで本が一冊書けるだろうが)。Eric少年は15歳で英国倫敦に渡り建 築学を専攻。19歳で返滬。その若輩で不動産デベロッパーと建築会社を設立。また上海の英字紙三紙に競馬表を書き歌舞音曲にも長け……と実に見事。 1920年の上海だもの、そりゃ素敵。今日知って驚いたが「独身OL2人組☆中国不動産徒然日記」なるブログ(こちら)の記載になんと上海にはEric Cumineが設計の(おそらく建築施工まで)アールデコの高層アパートが現存……。Denis Apartmentと云い歴史的保護建築物に指定されており南京西路の一等地で気になるお値段は115万人民元(日本円で約? 15,600,000)とは。こりゃ「買い!」だ。1928年の竣工でEric Cumineが23歳。日本軍による上海陥落で失意の時を過すEric Cumineだが捕虜収容所に収監されていたEric Cumineは友人と一緒に一人の、両親と生き別れの少年と遭遇。その少年を保護するのだが、この少年が大人になり自伝的小説“The Empire of Sun”(スピルバーグ監督が映 画化)のJ.G. Ballardなのだ。1949年の中共による建国でEric Cumineも香港に逃げ延びる。友人・利孝和の幇助でEric Cumineは利家が所有する銅鑼湾のLee Theatre(利舞台!だ)の建物の一角に事務所を構え(もう話が出来過ぎ……)利家の銅鑼湾一帯の開発の中で建てられる新寧大廈など(ここに昭和41 年に創立の香港日本人学校が入居)や利園酒店(Lee Garden Hotel、現存せず、現在のThe Lee Garden)次々にEric Cumineが設計する。多才であるからこの時期にEric Cumineは“Hong Kong Ways and By-ways”なる歴史百科全書まで手書きの図版も含め執筆。彼の建築は多彩で銅鑼湾のモダンな新都市建築もあれば奇抜な邵氏映画撮影所行政楼もあり、 そして、あの北角の公共団地の誉れ・北角邨も彼の設計だったとは……。この才能にStanley Hoが 眼をつけ彼の一大プロジェクトであるマカオのホテルリスボアを Eric Cumineに設計託す。出来たのが「あの」カジノ城。好き嫌い、上品下品は問わず(いや、普通なげ嫌いな下品さだ)で当時、人々の間では本館が雀籠のよ うで客人は鳥籠に閉じこめられたようで風水が悪い、と悪評であったそうな。そりゃ賭場で籠の中の鳥ぢゃほんとうの鴨である。成功ばかりでもない。東洋のオ ナシスと云われた船王・包玉剛にも見込まれ九倉(Wharf)の尖沙咀でのOcean Centre一帯の開発ではEric Cumineの設計のせいで建蔽率でミスがあり百万sqfの面積の損失があった、とHK$3億の損害賠償求める訴訟を受けてたち孤軍奮闘。相手は財閥で弁 護士費用だけでも数千万ドルを費やし応戦の結果、九倉も一度は和解を提案したがEric Cumineは建築家としてのプライドで和解退け、結果、九倉側は敗訴。だが英国枢密院にまで提訴され(当時、香港の最高裁判所は枢密院)78歳の Eric Cumineは自分の建築会社の合弁人4人のうち2人が他界しもう1人も戦線離脱、往時は二百名のスタッフを有した建築事務所も裁判続く中でわずか数名の 所帯になるまで規模縮小。中風も患ったEric Cumineは81歳でついに勝訴。枢密院の上訴審は九倉側の司法秩序濫用を退けたがEric Cumine側にも一部の賠償額の支払い命じ彼が一大で創り上げた設計会社は煙消雲散となった次第。実に壮大なる一人の建築家の物語なり。
仙台市の中華街構想が新任市長の意向で構想取り消しになりそうな話から魯迅の仙台時代の医学ノートの話となり「魯迅の碑」について昨日綴ったが折角の機 会であるから綴っておこう。なぜ香港で我がこんなこと書くのか「きっこの日記」くらい変だが。別に民主党の代議士から情報得たわけぢゃないがGoogle で捜してもこんな話は出てないので記録のため。大正14年に寒 川恒貞の事業として仙台に設立された東洋刃物会社(沿革)の鍵となる人物は本多 光太郎(東北帝国大学附属金属材料研究所所長)。東洋刃物は東北帝大・金属研究所(金研)の当時最先端の研究成果を実用化することで「世界有数の刃物メー カー」の地位を築く。今でいう産学協同。東北大学非鉄金属研究は東京帝大の長岡半太郎博士が明治43年に東 北帝国大学開設の際に東北の理学部転じようとしたが東大の無理な引き留めで果たせず弟子の本多光太郎が送り込まれ金研の初代所長となる。此処は設立当初か ら世界の非金属研究をリードする地位にあり。このとき金研の事務長となったのが東北大学経済学部で宇野弘蔵に学んでいた高橋剛彦。剛彦は東北大学社会科学 研究会で活動し治安維持法違反の逮捕歴もあり。研究者として身を立てるべきか悩んでいたところに塩梅よく金研の就職口を世話された模様。金研では本多の秘 書役。見込んだ本多が東洋刃物の経営に剛彦を送り込む。世が世なら仕事にもありつけぬ左翼学生だが当時の我が国には学問を基盤としたこういう自由なネット ワークあり(山口昌男氏がよく解くところだが)。その非鉄金属の東北大工学部の歴史の果てが西澤潤一大先生。でその西澤先生が左傾排除の「へんな名前でお 馴染」首都大学東京。悲しいかぎり。

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