二月廿五日(金)湿度98%の春空。上海に住めるか、住みたいかとふと考える。最終的に答えは否。仕事や景気では今の上海が香港に勝ること明らか。確かに都市としての「発展」著しく従来の都市の底力もあり。だが都市といふ部分除けば海も山もなく晩に集合住宅の室内プールとサウナ、週末はゴルフか。それ思えば香港は海あり山あり都会あり。毎日何かと楽しみもあり。シンガポールは山もなければ自由な言論もなし。それなら香港。晩に帰宅してからジムまで走りジムで半時間走る。帰宅してチゲ鍋。NHK「義経」ビデオで観る。平幹二朗。年老いて演技からすっかり脂肪おちる。目線だけでも演技見事。中井貴一の頼朝役、ここまで解釈していいのかとすら思ふ程だがあの役柄誰かに似ている……と前回から思っていたがふと気づけば浩宮様。
▼『世界』の二月号にリービ英雄の「9・11ノート」といふ文章あり。愛煙家のリービ氏が偶然にあの日に向けて米国に旅立った話。煙草にまつわる記述なければ面白くも可笑しくもなき話で煙草をモチーフに上手に用いる。でリービ氏の何が興味深いかといへば彼の日本語。もちろん優れた日本語の書き手ではあるがやはり奇妙な表現あるのは事実。例えば「画面には、もう一つの飛行機がスピードを上げていくつかの高層ビルの屋根すれすれの低空を飛び、今度の映像で、朝の光に白く輝いているのだと分るビルに当たった」といふ表現。一瞬読み過ぎてから「あれ?」と戻って良く読むとやはりどこか違和感あり。主語はどれか?と探せば「もう一つの飛行機」でそれが「ビルに当たった」と主述関係はきちんとしている筈だがどこかへん。まず「画面には」だからだらう。「画面には」なら「〜が映った」のほうが自然。今度の映像も「今度」は未来に向いているので「次の」のほうがいい。「画面には飛行機がもう一機スピードを上げて(略)低空を飛ぶのが映り、次の映像ではそれが(略)ビルに当たった。」とか。もう一つ「路地の白い灰をカメラがパンして、男のアナウンサーがまるでnuclear winterの景色です、と唱えた。」もどこか違ふ。だがこれを「カメラがパンして路地の白い灰を映し出し、男のアナウンサーはそれを「まるでnuclear winterの景色です」とたとえた。」としてしまふと何処かつまらない。「昼すぎにホテルから出かけて、レストランで食べた」も「レストランに出かける」といふ表現ならあるし「昼すぎにホテルを出てレストランで昼食をとった。」なら自然。だがリービ氏が日本語で書いていることがそれより重要なこと。それより関心は岩波の編集部は「敢えて」リービ氏の日本語をそのまま掲載したのか、それともまさか何も気にもせず、だったのかといふこと。