九月朔日(水)香港の学校の一年の始業日であり毎年通学時間にバス運行大混乱あり。北角(写真)のフェリー埠頭のバスターミナルで政府運輸署の副署長だかがバス運行状況の視察するのに遭遇(写真)。今年は例年にくらべ渋滞など少なし。晩にFCCで歴史家の和仁廉夫氏、某通信社支局長氏(某っていっても共同と時事しかないのだからイニシャルも出さず)と週刊香港の元編集長の畏友K氏と四人で(なぜ和仁さんだけが実名なのか、ご本人が著作もあるということで)歓談款語三更に至る。それぞれ文章発表される媒体のある方なので歓談の内容はここに誌さぬが、昨晩の二時間睡眠での朦朧も忘れるほどかなり「なるほどそうだったのだ」的な有意義な意見感想のやりとり。だが和仁氏が日本にありながら余など比べものにならぬ程に香港はじめ中国台湾の政治から歴史まで熟知されていることに敬服するばかり。
▼東京都の職員の某氏よりメールあり。余の度々の東京都知事に対する罵詈で今さらながら先月末の日剰に「余は東京ファシス都と書いているが厳密には東京ファシス都知事であり東京都の職員でも都民でも良識ある人がいるわけで容易に東京ファシス都などと呼ぶのは失礼かとふと思ふ。もちろん東京都の教育委員会のようにもはや完全に都知事の色のついた部署もあるが。」と述べたが、これについて、氏より「色のついた人は圧倒的少数です。彼の「ファシス都」はパフォーマンス色もだいぶ強く、そのことは皆十分承知してます」と。そうであろう。公務員といふのはトップが極右ファッショであろうと無責任男であろうと自治体の運営するもの。「アレが今度はこんなことやってるよ」で「まったく」と笑ってすませるのかもしれぬ。東京都民も同じかも知れぬ。その良識は信頼されるべき。だが問題は、内部で大気汚染対策とか財政改善とかどれだけの努力があっても、国家に隷属する地方自治体でなく自治体としてやることはやる、国と戦う、とかそこを見ればかなり意味あり、だが、石原慎太郎といふ人が日本の首都の知事であることでその都知事の言動が明らかに日本のある多数の世論を代表するもの、として外部からはとらえられること。実際の自治体運営とファッショ的発言は別と思えるのは内部で、外部では三百万票得た都知事とかなり信条同じくする、或はホンネでは知事に共感する都民がいるからこそ、あのパフォーマンスで解任もされない、と映る。豪州の白豪主義のPauline Hanson女史や仏蘭西のルペン氏など日本から見てみればわかること。Hanson女史にとって我々は迫害すべき敵と思われる、と感じるから。それが中国人からすれば石原の存在。
▼中国のオリンピック史
1922 中華民国で初のIOCメンバーが選出されIOCも中国を認可。
1932 ロサンジェルス大会の百米走に1名の選手が参加。
1936 ベルリン大会に7種目54名が参加。
1939 二代目のIOCメンバーを選出。
1947 親共派のShou Ti-tungが三代目のIOC委員に選出される。
1948 倫敦大会。5種目26名が参加。
1949 中華人民共和国成立。
1951 中華オリンピック協会(COC)の組織が中国から台湾(国府)に移設。
IOCはこの台湾に移ったCOCを正式に認可。
1952 中共とと国府がそれぞれヘルシンキ大会への参加表明。
IOCは中共の参加も認め国府はそれに抗議に参加拒否。
中共より40名の選手参加。
1954 IOCは中共のオリンピック協会も認可。国府も認可維持。
1956 北京に残ったままIOC委員であるShou Ti-tungが国府のオリンピック協会のIOCからの脱会決議を求める。
IOC会長Avery Brundageが拒否。中共は抗議のためメルボルン大会を参加拒否
1958 中共がIOC及び全てのスポーツの世界的組織から脱退。
Shou Ti-tungはBrundage会長を「米国帝国主義の下僕」と罵りIOC委員を辞任。
1959 共産陣営のIOCメンバー国家から圧力かかり国府がCOCの名称使わぬことが決定される。
1960 ローマ大会に国府は「台湾(フェルモサ)」の名称で参加。プラカードは“Fermosa”で「抗議中」とも表示。
1971 IOCは中共のIOC復帰承認。但し国府の加入はそのまま。
1976 モントリオール大会。
カナダ政府は中国は一つといふ政策で国府が「チャイナ」の名称使用を認めず。
国府の青天白日旗及び中華民国国歌の演奏も認めず。
台湾選手団が開会式前日に抗議の帰国。
1977 IOCのキラニン会長がモスクワ大会を前に北京訪問。
1978 スペインのIOC委員が北京訪問しIOCの中共承認を示唆。
1979 IOCは中共がCOCとしてIOC復帰を議決。
国府側は中華台北オリンピック委員会となる。
1980 中国が冬季プラシッド湖大会に参加。中ソ対立からモスクワ大会は参加拒否。台湾も西側としてモスクワ大会参加拒否。
1984 ロサンジェルス大会。中共が中国代表として初の参加。
金メダル15個で金メダル獲得数では4位。
1988 ソウル大会。中国は金メダル5、11位。
1989 COCが2000年大会の北京開催を画策と発表。天安門事件。
1992 バルセロナ大会。中国は金16、4位。
1993 シドニーが2000年大会の開催地に決定。
1996 アトランタ大会。中国は金16、4位。
2000 シドニー大会。中国は金28、3位と躍進。
2001 08年が北京開催と決定。
2004 雅典大会。中国は金32、2位。
台湾が76年モントリオール、80年モスクワの2度除き1932年からの連続参加で悲願の金メダル(しかも2つ)を得る。
▼2008年北京五輪のメインスタジアムの完成予想図見て、何なのだろう、と思ったが、これはコンセプトは「寒天」だと思えばよろし。まず1のオリンピックスタジアムが素材としての寒天、で3のスイミングセンターが加工された寒天、で2の室内スタジアムがカビがはえた寒天、というわけで。
▼香港バプティスト大学の運動系の教員が香港は基礎体育文化と政策が欠如と指摘。オリンピックで活躍できるレベルの運動員の養成に向けてのこと。だが国家だからこその運動技能養成が必要、可能なのであって「たかだか地方都市」のレベルで誤解甚だし。寧ろ才能ある者を国家に送り込み養成してもらうほうが得策ではなかろうか。
▼オリンピック熱冷めやらず。六日には中国の金メダリストらが来港。宇宙飛行士と同じで北京、上海に続き香港特区重視。当然、愛国心高揚が目的に他ならず。その際に国威発揚歌『世界第一』熱唱と新聞にあり、何の曲かと思えば、00年に李小鵬らシドニー大会の中国金メダリストがこの歌を歌い収益を眼患者の治療費に充てたとか。
世界第一
走在世界最前面 那裏才有明天
Ni的掌声向這一辺
我的一点光栄 来自Ni的驕傲
這様才会贏得漂亮
已経做好準備要拿走第一
看 中国国旗瓢揚
回来的礼物是世界第一
不可有在一個人失望
痛苦中有快楽 絶望裏有希望
因為有Ni在身旁
Pao在他們之前 涙水掉在後面
要全世界都看見
贏了所有友誼 帯給国家光栄
開始精采的明天
Niは「人」扁に旁は「尓」で「あなた」、Paoは「足」扁に旁は「包」で「走る」
世界でナンバー1 (訳:富柏村)
世界のいちばんトップ走れば そこにこそ明日がある
みんなのトップ走ろうってのも
キミの応援があるからなんだ
だからステキに勝つことができる
もうトップ走る準備はカンペキさ
ほら見てごらん 中国国旗がなびくのを
持ち帰るプレゼントが「世界のトップ」さ
誰一人だって失望はさせられない
苦しみの中に喜びが 絶望の中に希望がある
キミがそばにいてくれるから
みんなのトップ走れるし 涙は後ろに飛んでゆく
世界のみんなと出会って
みんなの友情勝ち取って そして中国に栄光を
すてきな明日が始まるのさ
キミが世界でナンバー1になっても他の誰も喜ばないかも。国家主義、覇権主義。この歌詞での「きみ」は「同胞」であり訳詞で「みんな」としているが原詞では「彼ら」と実際には非常に排他的な競争観。たんに恋人をまえに他の誰にも負けないよ、ならいいのだが、歌詞で露骨に中国国旗がなびいて中国に栄光ぢゃ歌詞に品なし。