富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

台湾一周の旅7日目 太魯閣

八月十三日(金)晴。ホテルのマイクロバスにて景勝地・九曲祠に下る。横断道路沿いの車寄せにてバス降りて渓谷の急崖見上げておればカランカランと天より音があり小石降り「落石注意」の看板もあり岩陰に隠れればいきなり天より人が二抱えほどの巨岩降りて駐車場所の急崖に設置の鉄製のガードレイルに当たりガードレイル一本折れて崖下の川に落ちる(写真)。心の臓も止まる思い。冷や汗。恰度其処には余とZ嬢の他、一組の自動車で渓谷に遊ぶ家族あり。彼らも岩陰に隠れたが、この自家用車の持ち主、愛車の僅か1m横に落石あり次は我が愛車の屋根もこの落石に凹むかと思えば愛車精神とは恐ろしきもの、決死の覚悟にて愛車の運転席に乗り込み愛車をば岩陰へと移す。現在は長い隧道多く旧道は岩肌も見事なる短い隧道をいくつも潜りつつ観光客が渓谷の絶景(写真)楽しむ嗜好。されど余とZ嬢先ほどの落石恐ろしければ岩陰の岩伝いに恐る恐る歩かざるを得ず。ホテルの車が迎えに来て次の景勝地・緑水に至る。此処からこの横断自動車道路出来る以前の山間の旧道残りそれを歩く。旧道入り口の説明板によれば、もともとは原住の民の狩猟道、いわば獣道。それを日本統治始ると原住の「蕃民」の理蕃政策により軍部警察がこの道をば幅1m半ほどの軍用歩道に整備。昨日の霧鹿の吊り橋も同様。その吊り橋の袂の案内板に佐久間神社なるかつての立派な神社の写真あり。この太魯閣よりの横断道路、民国45年(1956年)に蒋介石の指揮下国民党の軍隊により建設開始し僅か三年で貫通。建設の目的もいくつか余が察するに、一つは台湾占拠せし国民党が威信にかけたインフラ整備。台湾には日本統治期に鉄道始めかなりの整備ありこれに負けぢと大陸横断道路建設はかなりの威光。更に大陸光復とかなりの軍力維持の国民党政府にとって実際の対中共戦なければ軍人労働力をば何かに向けることは必須にて、爆弾も削岩に用いられればこの横断道路建設は実に利に叶ふプロジェクトかと察す。古道歩けば山間の林間に古い石碑あり(写真)。大正三年から十一年にかけて原住民による殺害に遭遇=殉職の警官らの慰霊碑。慰霊されるべきはその警官らに戮された原住民のはずと心痛む。この旧道数キロと短いが途中に二十米ほどの真っ暗な岩場刳り貫いた隧道もあり(写真)。手作業にてよくぞ穿ったもの。緑水の公園管理所に至る。管理所横の公衆便所の小便器に畏れ多くも香港の誇る大スタァ・アンディ劉徳華様が登場の広告ステッカーあり(写真)。ご本人便器に我が肖像ありとは知る由もなし。小便の際に無意識に頭垂れるわけで、するとアンディ=ラウ先生がこちらに微笑みかける。街道沿いの山小屋風観光案内所にてコーヒー。台湾は珈琲旨く本格焙煎、ドリップも奇しくなき上に山の良水用いて珈琲美味ながら一杯百五十元(約五百円)と観光地値段。昼前にホテルに戻りホテル前のバスターミナルの観光客相手の飯屋にて粽飯と高原野菜の炒め物。昼すぎホテル屋上のプールに憩ふ(写真はプール水面よりの眺め)。ホテルほぼ満室の上にこの横断道路沿いに満足な食事の施設はこのホテルのみとあっては団体バスにて食事に立ち寄る客も多いが観光に忙しいは当然にてプールに余の他に客などおらず。埴谷雄高『死霊』昨晩より読むが大学の頃に非代々木系の左翼の友達のアパートには必ずといっていいほどに「置かれていた」この本。難解と定評で余も何度かページめくるが読む気にならず昨年文庫本となり三冊まとめて購入したわけだがやはり読んでも余にはさっぱりわからず粗読。感性と知性の無さを悔みつつ本はそのまま宿の部屋に残せば、いずれどなたか台湾の太魯閣か花蓮にて埴谷雄高『死霊』読んでいただければ。台湾でわざわざ『死霊』といふ気もしたが、この本の鶴見俊輔によるあとがきで埴谷雄高が台湾育ちで戦後日本に還ったことを知る。余はそれを今日まで全く知らず。子供の頃に埴谷雄高が「自分に優しい母親が家の外に出ると土地の人に優しくないのが不思議だった」と語った、と。植民地。午後複びホテルの車で今度は横断道を十分ほど登り「かつての秘湯」文山温泉(写真)。道路より岩場を歩き坂を下り吊り橋渡れば急崖の下に流れる渓流の岩場に硫黄に白濁のこの温泉源あり。周囲の大理石岩浸食し天然の温泉となる。現在では「整備」されコンクリで造営の風呂場となり高温、中温低温と三つの岩風呂。渓流にはこの温泉湯流れ出し岩遊びも心地良し。見上げれば天井の如く岩が蓋ひ、ふとアンドレ=ジイドの短編「アクワサンタ」(新潮文庫の絶版「秋の断層」にこの短編あり)思い起こす。その伊太利の保養地アクワサンタの浴泳場は地下の岩場でこの文山とは異なるものの硫黄泉にて。湯に身体熱れば岩風呂の周囲囲む花崗岩の岩肌に背もたればその岩の涼しさ。七日に台北にて購ひし曽秀萍『孤臣・薜子・台北人』といふ白先勇論読み始める。渓流の上流にもう一架の吊り橋あり。地図にもなく気になり湯を出で自動車道まで戻り距離四百米ほどの自動車隧道の路肩をば懐中電灯頼りに潜れば隧道出た「このあたり」、背高き雑草の向こうにすでに廃れ果てた吊り橋あり(写真)。危険と承知も橋は丈夫な鉄製で床も鉄板で錆びてもおらず丈夫らしく渡ってみれば向こう側は建物も道路跡もなく何の目的の橋か検討つかず。此処から文山温泉見下ろす(写真)。ホテルに戻り蒸風呂。客は余一人。晩に昨晩に続き同じ食事処にて鱒のムニエルと台湾野菜・山蘇の炒め物食す。美味。台湾のニュース番組でZ嬢「えっ!」と驚き何かと質せば画面下に流れる字幕スーパーに「日本棒球読売巨人」でオーナー渡辺某辞任と流れた、と。何が理由かわからぬが吉報には違いなし。
▼ 台湾にてふと気づいたこといくつか。一つは三菱自動車の車かなり多し。豊田自動車より多し。戦後の追米経済にてフォード社の車が多いのは台湾の特徴ながら三菱とは。たんに台湾側のディーラーの強さだったのかやはり三菱といふ戦前の財閥からの名前への信頼だったのか。それと全くの余談だがホテルの枕が高いのに難儀。何処のホテルも枕高く朝起きると肩こり甚だし。
▼ この台湾横断道路について。十五日の新聞・中國時報に記事あり。以下写す。日本統治時代は未通。民国44年に国民党政府が建設に着手し1392日と当時で4億三千万元費やし貫通。工事での殉職者二百十二名、負傷者七百二名。貫通したものの雨期の土砂崩れや落石により不通も屡屡。一九九九年九月二一日の台湾中部大地震により海抜三千米に近い高山部の道路截断など被害多く台湾最大の渓谷・登仙峡は東西より通行止め。馬陵温泉の旅館は閉館。今年七月二日の記録的大雨にて谷関〜徳基の間が完全に遮断され復旧の見込みなし。現在はこの区間、数十キロを徒歩で征くも可ながら四、五日要し阻しい崖登りなどもあり、と。

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