富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

橋本治と内田樹

辰年四月晦日芒種。気温14.1/23.3度。晴。

橋本治と内田樹筑摩書房)読む。二人とも東京大学文学部で国文学と仏文。内田樹は2つ年下で「橋本治と同時代に生きられて、よかった」と吐露するほどの治ちゃんファン。この対談も聞き手で「橋本先生」と持ち上げる。

橋本さんはどちらかというと、世の中に、いかに「善きもの」を積み増していくか、という発想をされているでしょう。僕はそうじゃなくて、いかにして自分のもたらす害毒を最小化するかを考えてきたんじゃないかと思うんです。だって、ひどい人間ですから。

と憚るほど。それだけに「橋本治というもの」に対する理解も深い。

自分じゃない人が読んでいる本も、自分が読んでいる本も、大きく「自分たちが読んでいる本」というところで結びつけられるんですよね。

なるほど橋本治といふのはさういふ人である。さうぢゃなければあんな小林秀雄論や三島由紀夫論など次々と書けないだらう。

僕は今度自分で橋本治論みたいなことをちょっと書いていて思ったけれども、結局、この人は生涯を終えた後じゃないと、ちょっと論じられないなと思った。死んだあとじゃないと「橋本治はナントカである」って、怖くて言えないですよ。

と仰つてゐるが、その橋本治が2019年に70歳で亡くなつてしまふとは。それにしても、この対談、駿河台のヒルトップホテルで2日にわたり長時間続いたものの全文なのだが、まぁ本当にでれでれと思ひつきの続く雑談で二人のファンでも、あまりの面白くなさに飽きるかもしれない。だがこの二人だからこそ、さういふ粉飾や演出のない雑談も記録されることは大切か。ときどきとても面白いコメントも散見される。例へば、1983年に上梓の『男の編み物、橋本治の手トリ足トリ』河出書房新社について。「これ一冊読めば明日からあなたもなんとか力がつきます」といふ文芸書のやうな実用書のやうな境を曖昧にした書籍ばかりになつてゐる状況にあつて……

観念的な理屈じゃなくて「この棒をこう動かして、この糸をこうすくって、次にこっちがわの糸をこういうふうにやれば、一つ目ができます」みたいな、志賀直哉の写生文のような、決まりきったこと、明確に存在するものを、きちんと言葉で表現するという写生文の訓練なんて、どこでもできないじゃないですか。セーターの目を棒で拾うということで写生文の練習をしようと思っていたんです。じつは。

いかにも橋本治らしいコメントだとファンはこの一言を読むだけで、この本を一冊読んで「あー、良かった」と思つてしまふだらう。そんなことの小出しが小説だつたりイラストだつたりセーター編みだつたりする。それだけ何か続けたら巨匠になる器なのだ。それが多岐にわたりすぎて、どれも「達した」といふゴールではないまゝ他界してしまつた。だから橋本治とは何か?といふことは永遠に「わからない」の連続かもしれないのだけれど「わかつてしまつたら」橋本治なんて「なんだ、もつと面白いのかと思つた」と残念に思へてしまふかもしれないから永遠に「わからない」まゝで良いのかもしれない。

橋本治と内田樹 (ちくま文庫)

今日郵送で届いた丸善『學鐙』2023年夏号に偶然のタイミングで内田樹先生「私の原点」といふ随筆の掲載あり。大学を出て就職もせず大学院にも落ちて翻訳や家庭教師をしながらの遊民生活のころ。

自分のどこが悪いのかはわかっていた。妙に弁が立ち、筆が達者なので、ぺらぺらとまわりを煙に巻き、詭弁を弄し、巧い具合に立ち回ってきたのがよくなかったのである。「愚直に」なにごとかにまじめに取り組むということをしてこなかった。受験勉強なんかいくら真面目にやっても「愚直に」という副詞にはなじまない(あれは「バカみたいに」やるものだ)。私は生まれてから一度も「愚直に」生きたことがなかった。そう感じた。何かまっすぐ新しいことをするべきだ。それは「師に就いて学ぶ」ことだと思った。

そして自由が丘で偶然通りがゝりの道場で覗き見してたら誘はれて合気道に入門。生涯の師と仰ぐことになる多田宏師との遭遇。これを読むと感じることは内田樹先生が橋本治に惚れ込んだものは「何だかわからない」のだけれどジャンルは多岐にわたるが魅力の一つ大きな核は橋本治の「愚直さ」だつたのかもしれない。