黄之鋒の収監。大公報がそれを一面トップにしたらいかに重要人物かと宣伝になりかねぬのでそれは4面だかに回して検疫の重要性を一面に。
水戸芸術館近くのマダムディレイのシフォンケーキを昨日買つてきて今朝いたゞく。シフォン(chiffon)といふから法蘭西の焼き菓子かと思つてゐたが1920年代に米国の羅府で誕生したケーキなのださうな。
香港大学のジョンMキャロル教授の『香港の歴史』は数ある香港史書のなかで最も読む価値ある一冊。2013年の著作(英語)で早々に中国語訳が香港で出版されたのだが、そのうち原書で中共や梁振英行政長官(当時)批判した複数の箇所の内容が削除され市中に出回り著者は中国語版を出した中華書局に抗議。中華書局はこれに対して「大陸での出版に供するための『試作版』を誤つて香港で販売した」と釈明謝罪して、その版回収といふやうな「事件」もあつた。これを倉田先生ご夫妻が邦訳。通史なのだが実に面白いのはキャロル教授の独自の視点で興味深いエピソードがいくつも挿入されてゐるから。
(早期の香港)香港は大英帝国のなかでも最大級の警察と軍隊を擁し、精巧な専売特許制度と税制度、また多数派を占める華人を管理するための過酷な夜間外出禁止令と登録システムを備えていた。家人にだけ適用される罪と刑罰を新たに制定しながら整えられてきた刑法の体系によって、香港の華人は「絶えず変わり続ける干渉的な規制法と警察業務からなる入り組んだシステムのものに生きており、日常的な行為が次々と犯罪にされ、多数の人々がいきなり警察や裁判所に連れて行かれた」のである。
もう150年も前の話だがまるで今の香港そのものである。
中国のナショナリズムの台頭に直面したイギリスの官僚は、イギリスはもはや中国における通商利益を守るための植民地は必要ないとして、イギリスの善意の表れとして香港を返還するよう何度も提起した。緊張関係をさらに深めたのが、香港は必要があって広州政府と直接交渉しなければならなかったのに、イギリスの外交団は北京にいて、自分たちが中国と交渉する唯一の窓口であると主張したことであった。外務省はしばしば香港総督が広州政府に干渉しようとしているとして批判し、英国の中国における大きな目標を理解せず、中国の政治状況もわかっていないと非難した。
世界中を帝国の領土にしてゐつたイギリスだが外交政策が意外と脇が甘いことがわかるエピソード。その香港を永久所轄として貿易拠点として繁栄をもたらすのだから面白い。
1942年の中頃に蒋介石の国民党政権はイギリスに香港を放棄するか、あるいは少なくとも新界を返還するようにと働きかけ始めた。1942年の年末、中国における治外法権の撤廃と戦後の新界の位置づけを変更するための中英の交渉が始まった。1943年11月のカイロ会議で、ルーズベルトは蒋介石に対し、共産党の抗日戦争への支援に同意するのと引き替えに蒋の香港回復を支持すると約束した。
イギリスの戦時計画の策定者たちは戦後のイギリスによる香港回復を決断していたものの、中国国民党の要求は真剣に検討すべきであり、戦後の香港の状況に変化が起こることは覚悟していた。国民党は新界回収運動を突如放棄したが(中国がいずれこの問題について再度提起する権利を保持することで合意し、当面満足したのである)、イギリス官僚の中には他の占領地、特にインドとエジプトに集中するために、イギリスは香港を返還すべきと考える者もいた。さらにはアメリカの官僚の多くが中国を支持していることを知って、アメリカがこの件でイギリスに圧力をかけてくる前に香港を放棄すべきだと提案する官僚までいた。1942年の中頃、植民地省は香港が戦後返還されるかもしれないことを渋々認めた。1945年の年末という時期においてすら、外務省の中国局長だったジョージ・キットソンは、象徴的な目的と実際的な目的の双方からイギリスの香港返還を提案している。
この国民党(蒋介石)との香港交渉も興味深い話。このまゝであつたら香港は戦後、中華民国に返還されるところであつたが国共内戦で中共成立により香港は英国領のまゝとなつた。中共も香港を実力行使で奪回することもできたかもしれないが毛沢東の偉大なる発想で香港は資本主義のまゝ中共の窓口として戦後史で特異な位置を占めることになる。
1964年になると、香港全体で50万人近く(香港の全人口の約10%)が、山沿いのバラックか建物屋上の小屋に住んでいた。過密な居住環境、極端な貧富の格差、劣悪な労働条件、政治的代表の欠如、政庁(特に警察)の腐敗の蔓延の中で、1966年春に暴動が発生したことは、何ら不思議のないことであった。
この60年代の社会暴動の原因を見ると昨年までの暴動もじつは半世紀前と事実上は同じやうな民生の状況であつたことがわかる。
香港人が1980・90年代に政治的に関心を示したことは、香港人が歴史的に見て政治に無関心であったという一般の認識を完全に覆すものであると主張する者もいるが、これも時代錯誤の見方である。1980年代・90年代の改革の要求は、香港の社会・経済・政治的な条件の変化、特に地元意識の高揚、「中英共同声明」、天安門事件に対する香港の反応によってもたらされたものである。この頃までに、香港は以前とは異なる場所になり、その市民は以前と異なる場所になり、その市民は以前と違う人々になっていたのである。香港の経済の繁栄と政治の発展に対し香港人が貢献したというのであれば、香港の住環境や社会サービスの劣悪さ、抑圧的な教育制度、政治文化の弱さに対しても、香港人は責任を問われざるを得ない。もしも、一部の評論家が言うように、香港の大衆が確かに植民地政庁の社会サービスと政治改革の面での悪い業績に対して大いに怒っていたならば、彼らは政庁にもっと強く要求していたはずである。1970年代の政治・社会活動家は、香港の状況は中国よりもすでにはるかに良いのであるから「政庁を政治に巻き込んで面倒をかけるな」と、しばしば華人社会のすべての階層の者から警告され、抵抗されたのである。
これがキャロル教授の香港史の見方で白眉。歴史家の立ち位置としても正確。香港の人々の立ち位置をじつに見事に分析してみせた一文。そして倉田先生の「訳者あとがき」も素晴らしい。
本書の読者の皆様には、「いよいよ香港も終わりだ」との論調に染め上げられている巷間の分析が、いかに香港の歴史を踏まえていないかをお分かり頂けるであろう。表面的には安定した政治環境の下で自由と繁栄を謳歌してきたように見える香港の歴史において、実際には長期にわたり先行きが見通せた時代などほとんどない。外においては常に戦争や冷戦に取り囲まれ、内においてはストライキ・暴動・デモをしばしば繰り返す中で、絶望的にも見えるようなピンチに次々と直面しつつも、鮮やかにそれを切り抜けてきたのが香港の歴史である。「米中新冷戦」は、グローバル化から受益してきた中国・香港経済の転換点を思わせるが、実は今香港では、米国の締めつけで米国市場から撤退してくる中国企業による株式上場がブームである。毛沢東時代に鎖国状態の中国の唯一の窓だった香港の経済の再現があるかもしれない。一方、「国家安全法」の取り締まりが見込まれる中で、新型肺炎感染防止を口実として31回目にして初めて開催不許可とされた2020年のヴィクトリアパークでの天安門事件追悼集会は、禁令を無視した香港市民によって「ほぼ例年通り」に開催された。法律が取り締まれば全てが収まるような場所であれば、そもそも2019年のような強力で粘り強い抗議が起きるはずもなく、そこに至ったパワフルな歴史も存在しようがない。こうした思いを、訳者による副題……「東洋と西洋の間に立つ人々」に込めた。香港の歴史は、両者に寄り添いつつ、両者と適宜距離をとり、時には両者を手玉にとる、強い「人々」の歴史なのである。