富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

八九六四「天安門事件」は再び起きるか

農暦五月廿二日。曇り時々小雨。

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湾仔の湾岸にかつてFleet Archadeといふ施設あり主に香港に寄港する軍艦の水兵さん相手に生活物資やレコード楽器屋、香港ならではでスーツ仕立て等の商店が入り小粋なパブやレストランもあり。

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免税といつたものはないので一般市民も立ち入り可。マクドナルドはベランダが広くビールも置いてゐて世界一快適なマクドナルドかもしれなかつた。

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英米の軍艦の寄港も減り湾岸の埋立てで今ではすつかり内陸になつてしまひ、だいぶ周囲の環境も変はり半年前だかに施設閉鎖になり建物取り壊し中。


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香港は小売が充実しないのは余程売上げの良い商売じゃないと高い家賃払へないから。それでも少し裏道を歩いてゐると面白い商売もたまに見つかる。こちらは佐敦で通りかかつ一寸前の香港では考えられなかつた珈琲専門の小売店で自家焙煎の珈琲豆や抽出器具等売つてゐる。


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ミニバスの標識専門店。元々は運転手相手に行き先や料金表示板の専門店だつたが赤ミニバスが香港の生活文化と認識されるやうになつて素人客相手にミニバスグッズもかなり売れてゐる。


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佐敦あたりは店猫が本当に多い。

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母からのLINEのメッセージが可愛い。今年は傘寿だといふのに。Amexの家族カード使つてもらつてゐるのだが「重みがあります」といふのは、カード更新で母に郵送したのはAmexが(意味もなく)新しいカードをプラスチックではなくメタルにしたから。

「香港デモ」を読み間違えた中国・香港政府 - 田中秀征|論座 - 朝日新聞社の言論サイト

今回の香港の大規模デモが天安門事件から30周年、そして台湾の総統改選期とも重なったことも相乗効果として中国政府に方向転換を促したのではないか。とすれば、この際、中国政府・中国共産党は1997年の香港返還に際しての国際公約一国二制度」と「高度の自治」を前向きに積極的に果たしていく方向に踏み出したらどうか。具体的には、まずは香港の司法制度の独立、行政長官の直接普通選挙を実現することが期待される。

……って「そんなこと有り得ないだらう」と書生論で一笑に付されて終はりみたいな発想だが、さすが田中秀征先生の慧眼かも。天安門事件での〈民主化〉で想定される社会混乱じゃないが香港もむしろ香港の好きなやうにやらせてみて、さて何うなるか?を北京から一つ見物でもいゝのかもしれない。当然、自由にさせる分、過度の経済協力はしない……となると香港はかなり打撃受けるわけで香港側から靡くやうな結末になるやも知れず、であるからしてかうした手段は実は香港にとつては困るところなのだが。いずれにせよ「どん詰まり」で何も良案なき現状では、かなり突飛な方針も空論ではないのかも。

「天安門」三十年 中国はどうなる?

「天安門」三十年 中国はどうなる?

 

昨日読んだ安田峰俊『八九六四「天安門事件」は再び起きるか』に数多く登場する六四経験者の中で王丹と並び理路騒然としてゐるのが日本に帰化した評論家の石平先生。安田との問答が可笑しく石平が安田に「あなたの地元は滋賀県東近江市ですか、蒲生郡のあたりに渡来人が多かったところですね」と初対面の雑談でさう切り出したといふ。安田が「そうです百済寺ですとか鬼室神社ですとか、ほかに近所に秦荘といふ地名もあります、渡来人の荘園だったんでせう」と受け、石平が「東近江市の太郎坊宮には行ったことがありますよ。山の中腹にお宮があってね」と話し安田は所謂「反中本」で話題となつた石平のイメージの違ひに驚いてゐる。そこから石平の「石」といふ姓が珍しいと安田が「私は(太平天国の将軍)石達開くらゐしか知りません」と、それだけでも若い安田さんの知識に驚くところだが石平は「他には石虎(後趙の皇帝)や石敬瑭(後晋の皇帝)あたりかな、いずれにせよ、石といふのはもとは漢族ではなかった民の姓ですから、私の先祖も大昔は異民族なんでせう、石達開にしてもチワン族だという話があるし」と二人は天安門事件に話題が入る前に意気投合してゐる。時代が時代なら中国の秀才であつた石平が「安田さんは論文を書かないの ?ジャ ーナリズムもいゝけれど学問はいゝもんですよ」と水を向ければ安田が「両立は難しいですよ、内藤湖南みたいにはいきません」と答え石平が「内藤湖南かあ、あゝそれは確かに高い山ですねえ」と、まぁこれこそ知識人の雑談の極み。安田は、ツイッターで日本の保守ムラの住民として振る舞つてゐるかに見える帰化日本人の評論家「石平太郎 」と、該博な教養と論理的思考力を持つ中華知識人「石平」は「彼の内部にある別々の顔なのだらう」と割り切り、この石平と改めて長い対談をしたのがこの本。前置きが長かつた。この『「天安門」三十年……中国はどうなる?(扶桑社)は石平と安田が天安門事件に至る経緯、本質と今後の推移を語り合ふ。今年2月の対談のため昨今の米中貿易摩擦まで話題が新しいところ。天安門事件は一般的に一党独裁中共での「民主化運動」とされるが二人の認識は当時の学生たちの側も「党体制の打倒はまったく考慮の外」で「党内で失脚した開明派の政治家の方針を「間違いではなかった」と認めることで今の政治をよい方向に変えてください」といふ「体制内改革を要求」していたものだとする。具体的には胡耀邦の名誉回復。また精神的汚染反対運動つまり西側の大衆文化や自由民主や自由な精神の流入に反対する運動をやめること。さうした具体的な改善を求め「中国共産党反対」や「独裁体制反対」とは言つてゐなかつたとする「体制内の改革要求」。政府の存在を認めていなければ政府に対する請願はおこない。唯一「民主化」に直接繋がることといへば「報道の自由」だが、これも新聞に文章を書いたりする知識人予備軍としての学生が自由に論説述べるための具体的な要求。学生たちが最初から壮大なる民主主義理念に基づき三権分立や法治など求めた運動ではない、と二人の認識は共通する。(それこそ今回の香港での学生運動もさうだが)自分たちの運動を(426の人民日報社説での扱ひで)「動乱」としないでほしい、公正な社会運動として認めてほしいといふ要求。国のため何ういふ社会システムを再構築するかではなく自分たちの運動の名誉回復。やはり指導者の存在。自分自身で解決しないといふ宿痾。あくまで体制内の運動であつたのに、若い子どもが父に苦言呈すやうなものだつたのに銃をつきつけられ命まで奪はれた悲劇。これについては1989年の5月22日にウアルカイシが「運動は失敗した」と発言し広場撤退呼びかけ学生団体の代表を罷免されてゐるがいるが鄧小平の息子鄧僕方がウアルカイシに「流血回避のための話し合ひ」のオファーあり結局この面談の機会は失せるのだが鎮圧は党中央で確定となり「政権が唯一迷ったのは発砲するかどうかです」に絞られ天安門広場では流血の事態は避けるものゝその広場への進軍では手段を選ばぬことで生じた悲劇。「理不尽で身勝手なDVの親は子どもよりも自分が大事なタイプの最低の親だつた」といふ喩へは見事。その学生運動が党内闘争刺激し結果的にそれが学生たちの命奪ふものになる。共産党自身も大変な原罪背負つたが「学生運動は鎮圧されることによつて寧ろ一種、神聖なものとして祭り上げられた」と見る……かなり納得といふか読んでストンと落ちるものあり。これにより中共は絶対に踏み越へてはいけない一線を越へ毛沢東の時代に大躍進や文革でマイナス面あつてもかつて存在した党と人民の一体感は完全に崩壊。天安門事件の後、中共は何年かふゆの時代となるが鄧小平の南巡講話で経済発展に再起動してゐるが「中国の経済発展は天安門事件から始まつた」とも言へる、と。天安門事件の後遺症克服のため政権、敵対するエリート階層、知識人の間で「二度と反政府的な言動しない」ある種の「契約」が結ばれ経済成長こそ続くものゝ江沢民胡錦濤と党の指導は比較的弱いもので、ある種の自由(勝手か……)も享受されてゐたのだが、そこに習近平が現れる。二人の対談では毛沢東が大きなマイナス面はあるにせよ偉大であり誰にも太刀打ちできぬ巨人であり、その独裁には見事さほどあつたが中国が鄧小平路線を続けてきた後に習近平が今の小独裁体制を敷いて、これがどこまで通用するのか、途中で何らかの形で崩壊するのか、かりにしなくてもいつかポスト習近平の時代は混乱しかないのではないか、と厳しい……といふか習近平については二人ともボロクソ。さういふ内容の本を香港で出版して内地にも流通させてゐたのが銅鑼湾書店だつた。台湾統一も、江沢民にとつての香港返還、胡錦濤北京五輪と上海万博のやうな歴史に残る偉業として習近平は絶対に台湾統一をしたいところ(それについても香港での逃亡犯条例改正失敗と台湾の一国両制拒否は手痛いもの)。いずれにせよ天安門事件からの三十年で中国の経済成長、生活水準の向上は確実に進んでゐるわけで天安門事件も知らぬ世代にとつて「社会改革」といつた発想が芽生えるかどうか。何らかの社会混乱があれば、さういう時代になるのかもしれないが。そこで石平が、これだけ理路騒然と中国を見てゐる人が天安門事件での具体的な殺戮になると嗚咽漏らすほど気が動顚してしまふこと、そして中国の民主化になると天安門で唯一、発言が正しく、その後の『〇八憲章』起草しノーベル平和賞も受賞した故・劉暁波の、まるで基督再来のやうなことを願つてゐるのを安田峰俊があとがきでも印象に残つたこととして書いてゐる。二人とも一党独裁中共に対しては批判的で民主化された中国を願ふが、これは当然、中国大陸で一度も実現したことのないもので、そのためには中共の支配体制の弱体化、崩壊といふ社会混乱伴ふものなのだ。

毎日新聞(特集ワイド)「元気」は「もらう」ものか…自ら「出す」ものでしょ タダだから広まった? - 毎日新聞 https://t.co/A9j1BxfRuV

私は大嫌いな「元気をもらう」である。「元気づけられる」という表現があるのに。「タダでもらうのがおかしい」とこの記事は面白い。
(以下、記事より)活字に「元気をもらう」が初めて登場したのは1986年4月11日号の写真週刊誌「フライデー」だったという。当時「三越の女帝」と呼ばれたデザイナー、竹久みちが取材に「若い人から元気をもらうためにカフェバーに通っています」と答えている。その後、女性誌などで「パリが私に元気をくれる」といった表現が広がった。漫画『ドラゴンボール』の必殺技にも「元気玉」というのがあって、90年代以降「元気が贈与できるものになった」感がある。1988年1月24日付朝日新聞の読者投稿欄に載った「尾崎豊の歌に、自らは言葉に出来なかったいらだちや悲しみを見つけて共感して勇気をもらった」という一文が主要全国紙での最も古い事例のようで、90年代半ばから急増したようだ。毎日新聞の記事データベースで「元気をもら」というキーワードを入れて検索すると、この言葉を含む記事は約3,800件に上った。1991年6月に、当時大学生だった女優の石田ひかりさんが「友だちから元気をもらっているんです」とコメントしている記事が初出だ。以後、2001年には記事数が年間3桁になり、東日本大震災があった2011年に300件を超えてピークを打ち、以後200件台で推移している。

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