農暦九月初五。早晩に久々にハッピーヴァレイの競馬場。馬主W氏の盛大な年に一度の冠レース開催日に招かれ宴会観戦席の末席を家人と汚す。ビールかはりに香檳酒が心地よい初秋の競馬場。久々の競馬だつたが、そこそこ予想は的中。第7レースが冠レースで、宴会場を出てゴール前で観戦して表彰まで見届け帰宅。かつてのダービー優勝馬主でクラス1にも競走馬有するW氏ではあるが本日はクラス3、4のレースばかりでW氏の所有馬は出場せず。さすが。
▼朝日新聞(憲法を考える)非常時と権力 片山杜秀&石田勇治(こちら)
東京電力福島第一原発事故を目の当たりにして更に広域にわたり人が住めなくなるかもしれないと恐怖。政府が超法規的に対応をすることで混乱やパニックを抑え、よりましな対応ができると思った人もいた。
非常時、災害対策、国防などを名目にして、政府に強大な権力を与える憲法改正を受け入れやすくする環境に。この改正は、国民の権利を守る法律を政府が一時的に停止できる。臨時独裁的な権限を握った政府は、憲法や関連法を政府に都合よく拡大解釈しがち。
2001年に起こった911テロのあと米国では治安維持の名目で通信傍受や監視が当たり前。国家の権限がフリーハンドに近い形で認められるのは近代民主主義とは本来なじまない。ところがテロが日常化し「臨戦態勢」を続けることが許される時代に。自民党憲法改正草案ver.2は政府に強大な権力を認める緊急事態を「外部からの武力攻撃、内乱等による社会秩序の混乱」「地震等による大規模な自然災害」と規定。この「等」がやっかい。もし拡大解釈されれば、さまざまな事態において近代民主主義の擁護する基本的人権が制限可能に。災害などの事態に備え憲法に合致した法整備をするのが先。
冷戦終了後のこの二十数年「イデオロギーの選択は古い」という価値観に国民が慣らされ、現実主義が正しいとの考え方に傾いてきた。
問題は、何が本当に現実的なのか。護憲が時代遅れの理想主義で、改憲が当世風の現実主義。そこに落とし穴はないか。改憲を理想とする勢力が、災害時などの非常時のイメージを膨らませ、現実をゆがめていないでか。
「神国日本」の実力を過信した末の敗戦の反省に拠って立つ戦後民主主義と、その守護神としての平和憲法に身を添わせ、過去の栄光に惑わされず、静々と生き残りを図る。それがもはや老大国となりつつあるのかもしれない日本の現実主義ではないか。
シン・ゴジラでも憲法改正などせずとも非常時対応してゐるではないか。米国は勝手に動き首相はフランス大使にずっと頭を下げてゐるだけで日本は一先づゴジラの首都破壊を皇居の手前で食ひ止めたわけで。