富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

二月廿八日(火)二時間ほど寝て朝五時半すぎ起床。香港站までタクシー走らせチェックイン済ませ荷物預けAirport Expressにて空港。キャセイパシフィック航空のラウンジにて朝食。新聞数紙攫うが信報並んでおらず。9時10分発のCX504便に搭乗。744機で誰にも邪魔されぬ二階席80Hと80K席押えていたが新聞読もうと照明つけようとしたが点灯せず。座席の肘掛けに内蔵のハンドセットの不調。照明ばかりか(どうせ見ないが)映画などのスクリーンも制御できなければ服務員呼ぶことも能わず隣席のZ嬢のハンドセットも同様に不調。技術員参りハンドセット制御する主電源リセットされたが今度は照明だけは点灯したものの消灯しなくなり依然としてハンドセット動かず。機体はエプロンをば離れ離陸に向かう。服務員にこれぢゃ成田までずっと照明眩しく不自由も続くと伝えると離陸後に「後ろのお客様に移動いただいてお二人分の席を確保しますので」と。その搭乗客には申し訳ないが自分もそういう事情で二人掛けの席に一人でいれば気軽に譲るであろうし。でシートベルトの表示消えて「お席を移動してください」と言われ立ち上がると移動してくれるのはすぐ一列後ろの女性。すると服務員が我に向かい「シートを倒したりは問題なくて、動かないのはスクリーンだけですよね」と言う。どうやら後ろの客には「もしスクリーンが動かなくても差し支えないなら」と移動をば仄めかしたようで、それぢゃ私らが、たかだか「映画が観れないなんて!」と駄々捏ねた客の如し。「いや、そうじゃなくてハンドセットが全く作動しないし照明がずっと頭上からあたったままなのです」と説明すると、服務員がその客に「それじゃあちらの席のほうがいいですね」と別な席勧め、それで事無きを得る。ちょっとした不具合なら妥協するが、機内サービスに大きく影響するハンドセットの不調では妥協し難し。それでも我らなど服務員にも「お手間とらせて」とつい下手に出てしまうから、まだいいほうかも。Z嬢と思い出して笑ったのだが東京に住まう頃、知人の音楽関係会社の重役にM氏という「飛行機に乗ると文句を言わないと気が済まない」病的な御仁あり。とにかく飛行機は高いカネ出して乗る特別な乗り物であるから必然的に要求高い。一フライト搭乗毎に何らかのお詫びの品だの次回搭乗の際の特典など得ることに固執エールフランスの巴里行きに搭乗しYクラスでも「最前列」にこだわるのだが搭乗して「風邪をひいた」そうで、その理由が搭乗口の扉周辺から漏れてくる寒気によるもの、とM氏。扉の隙間から大気が侵入などしてきたら理論上、飛行機は飛んでいられるはずもないのだが到着後の数日に渡る執拗なる苦情にエールフランスとて東京支店の営業担当課長だかが菓子折りだか持参でお詫びに現れたほど。余も実は「別のお席を用意しますので」と言われた時に一瞬、Fクラスへのアップグレードか、と期待したが世の中そう甘くはない。新聞読みブランチ食しワインを少し飲みLelf Ove Andsnesで機内の音楽でピアノでラフマニノフのピアノ協奏曲1&2番を聞く。Z嬢がY氏から数日前に借りた中村紘子の随筆でラフマニノフについての記載もあったが1番が発表当時は不評で、という話があり。今これを聞くとポップス、で2番は浪花節だろう。朗郎のピアノでメンデルスゾーンの1番聞いていたら、もう日本。成田から京成スカイライナーで日暮里。車内の酸欠のような暖房に閉口。おもわずTシャツ1枚になるが寒からず。上野より実家に戻る。特急は1時間5分にまで時間短縮。時速100km越えているが狭軌鉄道で揺れがひどすぎる。ここもTシャツで寒くない。郷里の駅ではJリーグの地元サッカーチームの宣伝らしく選手らも駅のコンコースでファンサービス。実家に戻る。父をなくして時間もある母も歌舞伎の切符までネットの時代となりネットとメール始めるというのでiMacをば贈り、モノも届きブロードバンドの工事も終わっていたのでさっそく立ち上げる。晩遅くスーパー銭湯
朝日新聞衛星版(香港)のアジア面に香港支局の記事で「日本のイベント定着」という香港での早食い大食いコンテスト(競食)の話題あり。これのきっかけとなったのが昨年8月14日に開催された蔡瀾の美食坊での早食いコンテストで小林尊という人が叉焼飽の早食いで圧倒的強さ見せつけたこと。それが話題になり翌日マスコミで大きく取り上げられた、と、それはいいのだが「翌日」は当然、8月15日。これを企画した広告代理業の旧知S氏が「あえて終戦記念日にぶつけてみた。戦争の問題が厳然とある一方で、日本と香港の若者が楽しくやっているという現実も伝えたいと思って」と語っている。これは敬服。だが気になるのは、この朝日の記事で「翌15日、終戦記念日の各紙には、日本の戦争責任を厳しく問う記事と一緒に、小林さんの大食ぶりを紹介する記事が写真入りで載った」とする。一瞬、これを読むと日本の戦争責任特集の記事の横にこの大食漢ぶりのイベント記事が出ているようにすら思えるが、事実そうだったのだろうか。どうもイメージが先行している気がするのだが。
▼機内で読んだ『アエラ』に「堀江マネー操るスイスの金庫番」という記事あり。これは拍子抜けで大笑い。沖縄で謎の死を遂げた野口英昭氏もかかわる日本M&Aがらみでクレディ=スイス香港のKなる人物がライブドアの海外資金に深く関わる、というわけで記事の舞台は香港。で野口氏もかかわった香港のPacific Smart Investmentなる投資会社の取材となるのだが、アエラの記事はこの会社が中環の中心地のビル(東亜銀行本行ビルのこと)の28階にあるが訪れてみると、ここが東亜銀行系のセクレタリーカンパニー。数千社のペーパーカンパニーの会社登記が此処でされている、と。で、まさかクレディ=スイスのライブドアの口座の全貌が明らかにされるはずもなく、当然、話はここから進むはずもない。で記事は香港がいかに簡単に会社設立登記ができるか、という誰でも知っている話が延々と続き、最後は「鄙びたビルの小さなオフィスで簡単に手に入れられるペーパーカンパニー。だが、それは、当局の網をかいくぐって国際的な資金移動を可能にさせるパスポートともなる」と。えっ……タイトルは「堀江マネー操るスイスの金庫番」だったのに記事は「香港はいかに簡単にペーパーカンパニーが設立できるか」で終わってしまった(笑)。これぢゃ週刊文春週刊ポストなら編集長どころかデスクに「バカヤロー、なんだよ、これで堀江のマネー記事かよ!」と一喝され「記者、さっさとやめろ!」だろう。朝日のアエラであるから、これが活字になるアエラらしい毒にも薬にもならぬ典型「報道」なり。
▼中国の広東省前省長・梁霊光氏が逝去。享年90歳。文革の混乱も収まった1977年に福建省から北京中央に引き上げられ軽工業部長(大臣)。翌78年に北京で民族工藝展を開催。これが文革後10年で北京初の工業展覧会。三度目の復活果たしたばかりの?小平が会場に突然現れ、この展示会開催した梁霊光をば評価。80年に中国経済成長の花形であった広東省に遣られ広州市党委第一書記、市長、広東省党委書記、広東省長を歴任。80年に広州の五星ホテル・花園酒店が建設されたが香港からの資金をば当て込んだ開発であったのに香港側の資本は香港の中国返還問題が当時未確定で先行き見えぬ不安から中国投資が冷えており資金調達ままならず。その時に広州市長であった梁霊光が一筆認め「この投資事業については何が起きようとも広州市政府が全て責任を負う」と信任状をば香港側に送る。これでリスクかなり回避され香港側の信用が取り戻され花園酒店も開業に漕ぎ着ける。
朝日新聞NHK番組への自民党有力議員の介入報じた本田雅和記者が人事異動で「アスパラクラブ」なるネット上の顧客サービス担当に異動。朝日社内での社員のメール管理も厳しくなるようで中国なみか。

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