十二月廿五日(土)曇。昨晩聖誕節イヴで尖沙咀には四十万人の人出。蘭桂坊も二万人で立錐の余地なし。何故か聖誕節イヴの晩午前零時にカウントダウン。テレビの取材に「今年は……な年だったが来年は……」とまるで大晦日。イエス=キリストといい天皇陛下といい年末にご誕生にて民衆皆それを禊ぎとする。昨晩は寿司加藤よりBar Seedに行こうかといふ話も出たがクリスマスイヴの銅鑼灣など足踏み入れたくはなしとZ嬢。御意。本日もクリスマス気分の市街などうんざりでジムもインストラクターがサンタ帽などかぶるが目に見え午後まで在宅。Z嬢と裏山に登る。康柏カントリートレイルの山徑より少し入ると地元の健脚老人らの造成した彼ら花果山と名付けた見晴らしよき丘陵地あり谷間下るとすっかり整備された秘密基地あり。獣道を藪漕ぎし更に登ると山中に光緒二六年とある墓あり。光緒帝といへば清朝の溥儀の叔父にあたり帰宅して調べれば光緒二六年とは一九〇一年にあたりこの山中の墓は百年前のもの。自宅近くのジムに寄り一浴し帰宅。聖誕節の晩などどの料理屋もクリスマススペシャルメニューばかり。七面鳥食したり安い三鞭酒飲み高いばかりでキリストの聖誕とば異教徒で供に祝す心智もなく自宅で肉や野菜焼き食す。晩遅く近くの映画館に周星馳監督並主演作品『功夫』(邦題はカンフーハッスル)見る。香港内で一挙五十五館だかが上映し一昨日だかの開幕日に四百万ドル(六千万円)だかの収益上げ中共でも同日開幕で一千万元の売上げとか。不振といわれる香港映画で『少林足球』にて面目保持の周星馳が満を持しての作品。コロムビア映画が1億六千万香港ドルだか拠出。一九三〇年代の上海舞台のギャング物のカンフーであるが特撮もここまでCGしてしまうとは。CGでは十年前のジム=キャリーの『マスク』のほうが技術的に見事。特撮多様しながらもそれに負けぬセンスとウィットが必要なのだが、筋は『少林足球』に比べても陳腐。洋服の仕立屋の主人や麺粥店のオヤジがカンフーの達人であったり集合住宅の大家夫婦のカンフーあたり迄は人物設定で面白いが脚本が熟れておらず主人公とヒロインもかみ合わず何ゆへにこの青年がカンフーの達人となってゆくかといふブルース=リー以来のカンフー映画の「基本の基」に欠けたことが最大の欠点。音楽などいわゆるシナ趣味でカンペキに米国市場意識したのだろうが下品で粗雑なコミカル映画と烙印おされても不思議でなし。王家衛の『2046』でもそうであったが登場人物が大陸の役者か香港の役者かで普通話と広東語がごちゃまぜになっていても、それを役者本人が無理に合わせるでも吹き替え使うでもなく、ごちゃまぜにして「通じていること」にしてしまふのが最近の風潮。外国での上映を前提にすればどうでもいいのだろうか。ところで日本語のこの映画の公式サイトの粗筋で一九三〇年代の上海を「文化革命のまえの渾沌とした中国」って意味不明(笑)ちょっと余りのいい加減さ、拙いのではないだろうか、ソニー。
▼白血病克服の團十郎。病は完治でなく完全寛解で維持療法要す。今年五月に歌舞伎座にて新之助の海老蔵襲名披露始まった直後に発病し休演病気治療続け十月の襲名披露巴里公演にて復帰。今月は京都南座で「お祭り」を踊る。久が原のT君からも團十郎の姿につきメール頂くが一月には演舞場にて八ヶ月ぶりに東都での舞台に復帰の團十郎の記事が朝日にあり。昼が文七元結の清兵衛、夜は御所五郎蔵。敢えて役者の頑健さ見せるが大事の五郎蔵演じるとは。團十郎「やはり江戸の役者ですから。お客様が気持ちよくなれる役を私も気持ちよくやれれば」と。薬の副作用かいくぶんふっくら顔に海老蔵と同じ坊主頭で「どうも入院生活をエンジョイできるタイプだったようです」と豪快に笑ったといふ、この人のこの子供の頃からの人柄にあらためて敬服。入院中に読んだ本としてジョン・タワーズの『敗北を抱きしめて』といふのが印象的である。
▼独逸並に墺太利にて米国商業主義影響下に年末商戦宣伝役と成り果てしサンタクロース排し本来のニコラウス聖人の伝統取り戻す運動あり。独逸では十二月六日が聖ニコラウスの日。子供が玄関前に靴並べ菓子振る舞ふ風習あり。ニコラウスは四世紀の小アジアの司教。独逸のカトリック団体はプレゼントの買い物に大騒ぎする墜落嘆き米国流サンタクロース進入禁止の運動。赤と白の服着た太めのサンタクロースは三十〜四十年代に米国コカコーラ社が宣伝に起用し世界に定着といふ。