富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

三井康壽『筑波研究学園都市論』

辰年四月初六。気温摂氏13.1/21.9度。終日大雨(47.5mm)。大相撲五月場所二日目。横綱照ノ富士大関高景勝本日より休場。昨日横綱に土をつけた小結大の里を高安が見事に負かす。実に立派な相撲。だがまだ二日目で高安は後半崩れるのが心配。

三井康壽『筑波研究学園都市論』(2015年、鹿島出版会)一読。茨城県民とはいへ突然この本を読んだのは、この著者のお名前が今月末に開催される水戸芸術館での小澤征爾さんお別れの会で「発起人」にあつたから。発起人は筆頭がマルタ アルゲリッチ刀自で、続いて芸術館運営に功績のあつた方々の名前が並ぶなか三井康壽といふ名前だけピンと来ずネットで調べたら、この著作に行き当たつた次第。昭和38年建設省入省で都市計画に携はられ国土事務次官を最後に退任。茨城県には昭和55年に県庁の企画部長職に出向歴あり。この著作のタイトルからして研究学園都市建設の建設省の総設計師、プランナーなのか、と思つたが筑波研究学園都市建設の閣議了解が昭和38年9月なので三井の入省年であるから計画当初ではまだ若手すぎ。当時は第二次池田内閣で建設大臣河野一郎。聞かずとも明らかなことは三井の建設省時代の上司が後の茨城県知事の竹内藤男。竹内の建設省都市局長就任が昭和40年。参院議員を経て竹内の茨城県知事就任が昭和50年。竹内知事二期目の昭和55年に三井は茨城県庁に招かれ研究学園都市担当に。当時の筑波研究学園都市は国などの研究機関の移設はされてゐたが研究社の定住が進まず人口計画は20万人だつたが「都市」としてのインフラも整備されず。商業施設や文化施設、都心とを結ぶ公共交通機関(鉄道)の整備、また起爆剤となる科学万博の開催(1985年)などが計画実現されてゆく時代。1897年に「つくば市」が誕生し鉄道(TX)開通が2005年で今では人口も26万人規模(近々県庁所在地の水戸を抜くはず)。この都市計画は成功といへるだらう。それでも三井さんと水戸芸術館とどういふ関係なのでマエストロオザワのお別れ会の発起人なのかは私にはわからない。水戸芸術館の有力な賛助者のお一人なのかしら。いずれにせよ、この『筑波研究学園都市論』は計画立案から50年が減るなかで当時(2015年)関係者の物故、資料の散逸など懸念されるなか、この国家プロジェクトの都市建設を一冊の本にまとめた貴重な記録。

筑波研究学園都市論

(読書メモ、付足)それまでも多摩ニュータウン千里ニュータウンなど建設されていたが東京や大阪といふ大都市のベッドタウンであつて都市建設も容易だし「自立した都市づくり」といふわけではなかつた、と前置きした上で筑波研究学園都市が当時の日本としては画期的な国家プロジェクトであつた理由は「東京から70キロ離れ、通勤がかなわない立地特性から単なるベッドタウンでなく新しい自立都市を造る、しかもこれからの日本の発展を支える研究機関を中心とした都市を造る、という錦の御旗を掲げたから」であつた。田園都市であつて道路や公園が最初から織り込まれ、その街並みを整備するため独自の区画整理が最初からされてゐるといふ都市計画。