富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

日月潭から埔里に遊ぶ

fookpaktsuen2011-09-26

九月廿六日(月)晴。空が白み朝日が上るころ宿の部屋より日月潭の湖畔を眺めれば静かに、静かに幾艇かのカヤックが、まるで林懷民の舞踊の場面のやうに湖水を東南の方からこちらへと向かつてくる。漕ぎ手は立ち膝で上裸身の若者の鍛へら端整な健身、無駄な動きのない漕ぎ方の見事さ、朝六時に日月潭を横断する力量……素人集団ではなからう。中共密偵か……なんて思ふまでもなく朝八時くらゐからまた大陸観光客乗せた遊覧船が観光ガイドの声喧噪しく行き来するが中華民国国旗の船に中共の人民が乗つてゐるのだから平和そのもの。涵碧樓を眺め上げるあたりはさすがにエンジンを消すが「こゝは国民党、蒋介石が避暑に別邸として遊び……」なんて説明をしてゐるのか、と思へば「日月潭を代表する超高級ホテルで……」なのが可笑しい。昨日からのホテルの静かさに比べ朝食の食堂の混雑は驚くほど。午前中、部屋で読書。こゝ数日読んでゐた桐山桂一著「呉家の百年 呉清源とその兄弟」岩波現代文庫読了。呉清源のことは知つてゐたが満州国の外交官吏となつた長兄(戦後は台湾に渡り老後は米国で客死)、中国に残り中共の革命運動にかゝはり作家となつた次男のことは全く知らず勉強になつた、が著者の悪文が気になるところ。ところどころ文脈がつかめぬ表現多く、戻つて読んだり、でも意味不明、まるで見てきたやうな、しかも安っぽい比喩など気になる。書き手にはクセがあるにせよ「てにをは」がおかしかつたりしたら岩波で編集者は何とも思はないのかしら。日月潭眺めつプールで少し泳ぐ。正午に退房。快晴どころか強烈な猛暑のなか自動車で埔里へ。熱海から東京に戻る途中の小田原のやうな位置関係。町中の路地の小汚い食堂で簡単に昼餉。切仔麺や魯肉飯など。埔里酒廠をば大陸の旅行客に混じつて見学、といふか彼らは土産物販売のところに群がり文物館などはひつそり。紹興酒の勉強のつもりが1999年の九二一地震の被害にかゝはる展示多し。埔里、魚池、南投の被害甚大だが埔里は大きな地震などほとんどなく耐震建設など不徹底で家屋の倒壊、殊に建物の重さで一階部分が潰れる被害多し。夜中の大地震でそれでも死者が約千五百人で済んだのは四、五階の高層建築になると地上階は店舗で樓上が住宅の場合、潰れた地面に寝起きの者が少なかつたことも、夜中で火を使つてをらず火事が起きてをらぬことも幸ひしたのか、と思ふ。地震のあとの日月潭の湖水の嵩もかなり減つてゐる。涵碧樓も木造の旧来の建物が取り壊され、そこに重建された鉄筋の建物がこの地震で被害受け、その建て替へで今日の宿泊施設となつたこと知る。台中に戻りそのまゝ空港に送つていたゞく。清泉崗の空軍施設のその地形をふむ/\と考へる。戦国時代に山城といふのがあるが空軍基地を市街より小高い丘陵の平地に造営とは全く面白い話。空港ターミナルは小さいが国内線とのチェックイン、荷物預けが分かれてをらず一寸、複雑。夕方以降のフライトは香港便と四川航空の成都便のみ。出境手続きのあと成都便の田舎漢らのまぁ免税店での買い物のどん欲なこと。このオッサンが、と思ふが千六百元だかの高級ウイスキーお買ひ上げ。昔の日本人のジョニ黒の感覚で居間に飾つてをくのかしら。四川のオッサンたちの何とも鼻につく加齢臭といふか民族臭?が気になつたが幸ひにMoreなる十数名規模のラウンジありPriority Passで入れてご休憩。AE1831便で香港に戻る。ふと思つたが往路もエンブラエル190型機で、これに搭乗は今回が初めて加茂。陋宅に戻り荷物片付け。

呉清源とその兄弟―呉家の百年 (岩波現代文庫)

呉清源とその兄弟―呉家の百年 (岩波現代文庫)