富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

一月九日(日)晴。昨晩じつくりと寝たが流感はまだ治らず。頼まれて幾日も手つかずの仕立て仕事あり仕事場で小さな電気ストーブで暖をとりつゝ午後まで仕事。帰宅して夕方から臥床。一寝入り。文藝春秋二月号読む。水炊き。「水炊き」といふが、この言葉がどうも「美味そうぢゃない」。水煮も、さう。文字通り、水っぽく思へる。子どものころに乞食が公園でだつたか野菜の屑など水煮してゐたのを見たときの不味さうなのがトラウマになつてゐるの加茂。NHKで松平公が司会のスペシャル「日本人はなぜ戦争へと向かったのか」第1回“外交敗戦”孤立への道を見る。初めて公開される貴重な証言や史料云々と騒ぐが企画倒れの感あり。松平公の「その時、歴史は動いた」で十分な内容。まぁせいぜい「国家戦略なきままに外交を展開するというミスの連鎖」といふのが民主党政権への苦言かしら。岩波の「世界」一月号読む。夕食前より腹瀉あり。Zippoのカイロが重宝。先考が腹が冷えると夏でも腹巻きしてゐたり、荷風散人が腹瀉のさい湯湯婆抱き寝入ると書いてゐることが、今となつて我が身に沁みる。
文藝春秋二月号。「中国とこれからの「正義」の話をしよう」と大型企画組むが三笠宮の古い文書*1や、李登輝、大和屋に渡辺淳一といふ的外れなメンツ揃へ何が日中関係か……と呆れるばかり。李登輝先生はもはや焼きが回つてしまひ中国を「美人を見たら自分の妻だと主張する」「中国人というのは、自分の国が弱いときは、ジーッと黙っています。ところが、少し上向きになってくると、大きな声でいわゆる脅しをやる。」と言ひたい放題。だが、かつての欧米列強、日本も同じことをしてきたわけで中国だけが勝手ではないだらうに。台湾民主化の父が単なる文春的日本のデマゴーグになつてしまつたのが悲しいかぎり。日本の旧制高校リベラリズムの限界なのかしら。大和屋の文章も他愛ないもの。それにしてもアタシにすれば先代の役者を語るのに、
1926(大正15)年、今の(市川)猿之助さんのおじいさんの猿翁さん、(松本)幸四郎さんのおじいさんの七代目幸四郎さん、(尾上)菊之助さんのおじいさん梅幸さん、それに私の祖父(十三代目勘弥)や父が北京を訪問し、歌舞伎を公演したことがありました。
とここまで説明しないと猿翁、七代目、音羽屋が誰かわからぬほど昔のことなのね。歌舞伎といへばこの二月号で坪内祐三氏がAB蔵醜聞につき團十郎は単純に襲名出来ない名跡であり今回の事件はAB蔵がもつと大きな存在になるための通過儀礼だらう、と。アタシもそう思ふし坪内氏の叱咤は劇団四季社長のに比べずつと真っ当。ただ氏が九代目から十一代目襲名まで半世紀、團十郎不在があり而も十一代目が七代目(幸四郎さんのおじいさん)の長男であつたこと紹介し團十郎襲名の難しさ、を述べてゐるのだが九代目に息子がなく娘を無理に梨園にをかず、で世継ぎがなかつたといふ単純な事情もあり、亦た戦後は海老様ブームで松竹が仕組んだShow Biz的な成田屋復興でもある。ところで坪内氏は「酒をやめる必要はまったくない」として「彼が尊敬する祖父、十一代目團十郎も酒乱で有名であった」と述べてゐるが、それに加へ十一代目は酒ばかりか我童との云々など、かつて赤坂芸者の間ではかなり面白可笑しく語られた椿事もあり。遊ぶなら確かにマツコデラックスさんなどの云う通り相手を選び場所を選び、が肝心。
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富柏村写真画像 www.flickr.com/photos/48431806@N00/

*1:1994年に読売新聞の総合誌"This is 読売"の戦後50年特大号で三笠宮のインタビュー、殿下の「支那事変に対する日本人としての内省」と今回文春が再掲載の「綿鉄集」など掲載。