富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

市民革命を経ない近代国家としての自覚と自負

fookpaktsuen2010-09-07

九月七日(火)夕餉前に陋宅からヴィクトリアハーバー小一時間走る。三日も続けて走つてゐる。日没で俄かに暗くなつたハーバーをかなり発見しにくいが明かりもつけず二隻の黒いボディの快速艇が甲板に波をあびる六、七名ずつの忍者の如き輩を載せ快速でこちらに向かつてくる。かなり操縦が的確でないとあの速さで明かりもつけずでは他の船に衝突すれば快速艇は大破だらう。西湾河に香港水上警察の本部あり密輸摘発か何かの任務終へたか訓練後に本部に戻るところ。昼間に快速で飛ぶやうに水上を滑る速度も凄いが暗闇の忍びの如き態も見事。警察国家化は嫌だがフィリピンの水上警察だと沿岸でのんびり賑やかさう。帰宅して冷蔵庫にはフィリピン産のサンミゲル麦酒。この小瓶入りの麦酒はフィリピンがどれだけ悪口言はれやうと美味。
胡錦濤李嘉誠接見を蘋果日報は「胡錦濤忽然超規格接見 李嘉誠惡晒」と嗤つてみせたが信報は「胡錦濤獨見李嘉誠 冀發揮影響力促港深合作」と提灯記事で少なからず財界の要人が「なぜ深圳開発の功績で嘉誠一人が国家主席に賞讃を得るのか」と思ふであらうことなど一言も触れず。さすが信報も経営者(リチャード王子)の父君(李嘉誠)となると扱ひも破格か。建銀の調査員のコメントとして(つまり新聞社の代言だが)胡錦濤李嘉誠と単独会見に応じたのは商業的な意味でなく政治的考慮で、香港では「仇富」と「仇商」という反富豪、反財閥的情緒があるため胡錦濤が商界を代表する李嘉誠と会ふことで社会の和諧を狙つたもの、と。中共のトップが財界トップに会ふんぢゃ余計に「仇富」と「仇商」の世論盛り上げ深層的矛盾が深まりゃせぬか。信報は昨日より模様替え。新聞が模様替えして読み易くなると質が低下するのは日本の朝日や他の大新聞皆さうだが信報も例に漏れずます/\低俗化。社主・林行止の引退が近づき李嘉誠財閥に買収されたところで、もう末路は決まつたやうなものだつたが先日の陳雲さんの地産商避難で断筆余儀なくされたのも不吉の前兆。アタシは信報を香港一、つまり世界一の漢語紙と誉めレベルの高さはFTに勝るとも劣らずと信じてゐたが最近はもう二流紙の仲間入り。かつての明報的低迷も時間の問題かしら。そろ/\定期購読止めてネット版で文化面だけの覗き見で良い鴨。悲しい限り。
▼アタシが「勘違ひ」と言ひ切つた文明開化の頃の第一銀行に象徴される建築について久が原のT君が清水喜助に代表されるあの建築がコンドルや辰野とは全く別世界、まさに棟梁のその直観の鋭さは施主の求めた「新しさ」+自己の建築良識+一般世間の価値観を綜合して過たなかつたと思ふと同時に、その意味で、この大工職人の「訳の分んなさ」=時代を肌で感じた結果としての本質的「確信犯」ではなかつたか、と。然り。アタシはこの時代に市民革命も経ぬまゝ近代を無理矢理迎へようとしたことが現在の悲哀に繋がるとしたがT君は、でもどうなんでせうね、日本って、政治理論に基づく革命にせよ大衆暴発的な革命にせよ、それで政体をなした例がないんだから、と。中大兄と大織冠、頼朝公、後醍醐天皇、尊氏公、信長公、太閤殿下、東照神君、西郷と勝、先帝陛下とマッカーサー、歴史の転換の枢軸は結局、最後は「ひと」でせう、プミポン大帝を頂く泰國と所詮は変はらず。いつそ(ここが大事)「市民革命を経ない近代国家として自覚と自負を持つこと」ができるとよろしいのですが、と。御意。何だか加藤周一さんあたりがあと五年長生きしたら仰りさう。雑種で市民革命も経ず近代民主国家として経済先進国となり平和主義で戦争放棄、先端技術と自然環境保護……とまぁ美味しいとこ取りですが、井上ひさし的に素晴らしい夢。たヾ尤も、今のやうに甚だしい衆愚体制となると社会を担ふ優れた個人の創出はもはや無理賀茂。
▼フィリピンは第二次世界大戦直後は米国統治からの独立当初、アジアで二番目のGDPを誇り1960年の時点で一人あたりのGDPは韓国と同レベル。大学進学率は韓国の5%に対してフィリピンは13%だったが今では韓国の一人あたりのGDPはフィリピンの8.5倍で中国の半分でしかない。何がここまでフィリピンを散漫にしたのか。マルコスの悪政といふ人もいればマルコス時代はまだマシだつた、強力な統治者の不在を嘆く人もゐる。蔡瀾先生などあれだけの旅行狂がフィリピンだけは二度しか行つたことがないさうで、最近の何人かの大統領も清廉なるアキノ夫人を除けば「那個留着小鬍子的男演員,和上屆又矮又醜的小女子,一看就知道是壞人。當今的三世,也顯得無能,看來這輩子,也不會去了。」(昨日の蘋果)と罵詈雑言もここまでいくと呆れるばかり。蔡瀾で呆れるといへば今日の蘋果では九龍城のタイ食品雑貨の老舗「昌泰」紹介し九龍城に何故、タイ料理屋が集中したか、とへば「啓徳飛行場のあった当時、空輸で貨物が届くと九龍城が最も便利だつたから」と、なぜ空港近くに「タイ料理が」集まったか、の説明に全くなつてをらず。耄碌で連載はまだ大丈夫かしら。

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