富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

fookpaktsuen2008-05-03

五月三日(土)昨晩寝しなに蘇曼殊『断鴻零雁記』精緻なる解説迄読了。蘇曼殊の博識と感性、殊に漢文学への造詣など只々感嘆するばかり。だが断鴻零雁記一篇読めば他の短編は読むにつけ食傷気味。自らの出自であるとか数奇なる流転の日々を語る此の物語が明治末年に書かれしことは(アタシは苦手だが)日本の私小説史上特筆に値するか。本日、憲法記念日。昨日の香港の聖火リレーを如何報道するか、で興味深きは蘋果日報。立場的に北京五輪への共讃より「失ふもの」の多さへの憂ひだらう。が流石に10数万人が見物の聖火リレーは先ず「成功裏に終わる」で「但し異見者弾圧」になるところ蘋果日報は今朝の新聞で一面トップは一昨日のバス大破事故で悲しむ遺族。かういふ手に出たか、と。それは卑屈にすら映るが新聞の大部分が「香港は歓迎一色」なんて誤報される世の中、一紙くらゐ懐疑の立場貫いてこそ世の中真っ当。それもそのリベラル紙が一、二位を争ふ発行部数なのだから香港は未だ健全。日本に目を向ければ憲法記念日の今日、数年内に経営上の理由で歴史的な憲法改正容認なんて方向転換か?なんて思へたりもする朝日新聞は、今年の憲法記念日は「読売新聞の調査でも憲法改正反対が賛成を上回った」状況で、少し元気。僅か1年前に比べ憲法改正の語られぬ政治状況の中で改憲よりも多くの社会問題の解決が先、として豊かになつた筈の社会の貧しさの解決を訴へる。現行憲法の下で保障された生存権として。
憲法は国民の権利を定めた基本法だ。その重みをいま一度かみしめたい。人々の暮らしをどう守るのか。みなが縮こまらない社会にするにはどうしたらいいか。現実と憲法の溝の深さにたじろいではいけない。憲法は現実を改革し、すみよい社会をつくる手段なのだ。その視点があってこそ、本物の憲法論議が生まれる。
それに対して読売新聞は、昨年5月に憲法改正手続きを定めた国民投票法が成立し新しい憲法制定への基盤が整つたのに捩れ国会と民主党の非積極的な対応で憲法調査会が全く機能しておらぬ事を嘆き
この国はこれで大丈夫なのか……日本政治が混迷し機能不全に陥っている今こそ、活発な憲法論議を通じ、国家の骨組みを再点検したい。
と意気込むが例年の改憲音頭の謳ひ上げに比べると多少冷静。ぎりぎりのところで日本の良識が働いてゐる、と言ひたいが現実は疲弊しきつた社会が改憲どころぢゃない、といふこと。……ところで本日は、昼まで陋宅にて愚房の書籍片づけ。書架より溢れたる書籍床に侵蝕し始め「これはまづい」と所有しても一生二度と頁捲らぬだらう書籍集め昼過ぎ尖沙咀古書店に譲る。久々にDavid Chan氏のカメラ店富士フィルムのProvia100FとVelvia50を半ダースずつ購入。写真フィルムの購入も難儀の時代となりぬ。早晩にFCCのバー。ドライシェリーと白葡萄酒(Riverside by Foppiano)を各一杯。FT紙など読みつZ嬢来るを待つ。FCC隣りのFringe ClubにてFrench Mayの一環で本日より開催の『星の王子様』のサン=テグジュペリによるスケッチ展看てから久々に明珠越南餐庁に軽く食し東涌線にて葵芳。葵青劇院にて香港シンフォニエッタの演奏会。本日と明晩、英国から招聘のPeter Donohoeなるピアニストと共演でラフマニノフのピアノ協奏曲全4曲の通し、シンフォニエッタの演奏は失礼ながら多少不安もありしが4曲通しなんて機会も稀か、といふ次第。今晩は4番と2番。この楽団、芸術監督で指揮者の葉詠詩女史が演奏前に山本直純の如く曲目紹介などあり。今晩は彼女がそのDonohoe氏とラフマニノフのピアノ協奏曲につき長舌二十数分に及び閉口す。ラフマニノフの4番は今更ながらアタシも初聴。「こんな曲だったのね」と思ひたいがシンフォニエッタの演奏もなにぶんにも慣れてをらぬ曲を弾きこなすには至らず曲の感想は留保せざるを得ず。斜め前列に終始落ち着かぬ数名の不躾な若者あり。本人たちの無節操より何故に周囲の客が叱らぬか、が不愉快。演奏会跳ね、この不躾な連中の会話耳にせばチャイニーズだがくちゃくちゃ汚い英語で、だうやら地場の国際学校通う小金持ちの子女か。天真爛漫、まるでかつての太陽族の如し。中入後は2番。第1楽章始まれば客が少しざわついたのは「のだめ」効果か。Donohoe氏のピアノはそれなりに良いがシンフォニエッタは本来、もっと「歌える」楽団と信じるが葉女史の演出力に限界あり(だろう、たぶん)、千秋先輩ぢゃないが「歌えっー!」と念じたいのはラフマニノフの2番など誰でも知ってる有名なフレーズの「うねり」に非ず寧ろ2楽章だの静かな旋律で、今のこの楽団は歌えてをらず。普段はアンコールせぬシンフォニエッタながら今晩はDonohoeさんがピアノ小曲をさらり、と一つご披露。Z嬢によればラヴェル「鏡」より海原の小舟(Une barque sur l'ocean)の由。美孚から香港島に向うトンネルバスに乗車。驟雨。バス車中と帰宅後、佐藤忠男氏の『黒澤明の世界』(朝日文庫)読み始める。忠男先生、奥様と数年前まで香港国際映画祭に何度もいらっしゃり僭越ながら何度かご挨拶させていただいたが七旬も後半の先生を此処数年お見受けせず。三分の一も読んでおらぬが、忠男先生、戦中から戦後にかけての黒澤明に留まらず戦争に対する映画人ばかりか市井の民の「緩さ」を確かに見据える。そして言い放つ。
黒澤明は、弱き者に同情はしないのである。黒澤明にとっては、弱き者は、強くなろうと努力しないという罪をおかしているのであり、そのために、強い者のエサにされてしまうのである。同情はするが、けっして、甘やかしてはならないのである。(略)他の映画作家たちが、人間の弱さを尊重することによって、戦前と戦後の間に芸術上の一貫性を維持しようとしたのにたいして、黒澤明は、人間の弱さに奴隷根性を発見してたたきのめすことによって、戦争中とはちがう新しい日本映画をつくり出したのである。(略)重要なことは、自分の意思以外の何ものにも動かされまいとする人間を、黒澤明が描きつづけたことである。
忠男先生は黒澤明についてかう語るが忠男先生自身の訓として読む。
▼昨日の財界人、政治家、芸能人そして運動選手ら総勢120名による聖火リレー。このリレー中に二度「失火」あり。そのうち一度は偶然にも「64」番目の走者にて誰が数えたか走者の名をABC順で表記すると89番目の由。1989年6月4日の暗喩か、とまで考へるか。が英国Financial Time紙も一面で香港の聖火リレーの写真載せたが(偶然か意図的か)写真はヴィクトリアハーバー渡る、この64番の聖火(運び手の胸に「64」のナンバーあり)。そのFT紙の記事読めば「いぜんは英国に憧れもあったが今は中国人であることに誇りを感じる」と20歳の香港の学生。税理大手のPwC社は昨日を休日扱ひとして3,000人の雇用者を解放の由……電通も真つ青。
▼週末のFT紙ほどこの世に面白き新聞はないが、碩学Pico Iyer氏がダライ=ラマの人物像に迫る“The ascent of a man”は秀逸。チベット仏教の指導者、と我々が spiritual に描くダライ=ラマ像だが、ダライ=ラマ14世の老獪なる政治家としての智慧と自らハイテク駆使しての情報収集等々。興味深し。
石原都知事曰く。
生きているものは必ず死ぬんだから、パンダだって死ぬだろう。別にそれほどみんなが悲しむことじゃない。世界も狭くなったんだから、いるところに行って見てきたらいいじゃないですか。いてもいなくてもいいんじゃないの。どうでも……
都知事とて生き物として等し。
▼信報(四月卅日)に京都南座での大和屋による崑曲劇の記事あり。その牡丹亭の芝居に睡夢神役で出演の呂福海氏(蘇州崑劇院副院長)曰く今回の演出と近年評判の青春版(白先勇らによる)との違ひは「夢中情」部分の本に重点当てたことでヒロイン・杜麗娘に重心が置かれ、つまりは当然、大和屋による大和屋の大和屋のための芝居といふこと。この紙面に孔在齊氏の「願曲集」の京劇回顧録連載あり「伶界大王」として梅蘭芳を語る。蘭芳の前に「伶界大王」と言はれしは譚派の大立者・譚鑫培(1847〜1917)只一人。ふとアタシは大和屋こそ梅蘭芳に続く伶界大王狙ひか、と思ふ。ところで南座の記事に戻るが「玉三郎の祖父と梅蘭芳が昔、同じ舞台で」とあり。十三代目の勘弥のことか。

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