富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

二〇〇四年五月三日水曜日。午後十時〇五分大西巨人著『神聖喜劇』読了する。敢て私(富柏村)がこの東堂太郎という主人公の(それが著者大西巨人の投影であることは明白だが)僅か三ヶ月の軍隊生活を四百字詰め原稿用紙四千七百枚の長編小説に、著者の奥書きを借用すれば「遅きが手ぎはにはあらず、其の事の思出のみ」に綴った(この言葉が泉鏡花の『外科室』の鏡花による「小解」の「小石川植物園に、うつくしく気高き人を見たるは事実なり。やがて夜の十二時頃より、明けがたまでに此れを稿す。早きが手ぎはにはあらず、其の事の思出のみ。」の反語的引用であることを著者自身が述べている)、その著者に経緯を表し、敢て拙筆ながら私が大西巨人の筆致を真似て今日のこの日剰を綴れば、今日の晩までにこの小説の光文社文庫の第五巻、つまり最終巻の第八部「永劫の章」の第四「面天奈狂想曲」の半ば迄読み終っており、(本来は昨日のうちにでも読み終えるべきだったのだが昨日は海岸で直射日光に、且つ飲んだビールの酔いで不覚にも微睡み、読み終えておらず)、残り八十余頁をどうにか今日のうちに読み終えたい、と私(富柏村)は考えた。この小説を購入したのが二〇〇二年十一月十九日であり、いくらこの長編とはいえここまで読了まで時間がかかるとは私も予想していなかった。ちなみにこの〇二年十一月十九日という日付けも私にはこの東堂太郎のような異常なほどの記憶力を有する筈もなく、これもこの富柏村日剰を、それも読直さずともGoogleで検索掛ければ「fookpaktsuen」と「神聖喜劇」の二語でたちどころに〇二年十一月という過去に辿り着く。その月のこの日の前後の記述から益新飯店の突然の閉店が同年同月十五日であったことを再認識したこともここに付け加えておくことは余談だが。私の、どちらかというと粗読気味で内容の理解はともかく読むのだけは速い筈が、この小説の読了までに十八ヶ月も要したことについては、いささかの弁明、あるいはこの小説への賛辞として述べておくべきだが、大西巨人はこの小説を一九五五年二月二十八日に書き始め八〇年正月八日に脱稿、実に四半世紀の年月をこの小説に賭けたのであり、それ程の意気込みに読者もじゅうぶんな年月を課けることは当然でもある。内容とその重き筆致に、途中で何度も読む作業を中断して考えさせられ、数十頁を読み戻ることも屡々、途中、あまりの「こってりとした」記述に二週間ほど離れているようなこともあり、その結果がこの遅読という結果を招いた。だが並行して、『週刊読書人』でも大西巨人の口述が一年以上に渡り続いており、それが終るのが先か私の読了が先か、という感じでもあった。私はいずれにせよ今日を迎え、どうにか今日じゅうに読了しようと試み、だが地下鉄の中での立読みは疲れ、
自宅に帰っては疲労感でまた読了が明日明後日に延びることは当然のように予想され、であるから、読了を目的に午後九時二十分頃、九龍の美孚から、地下鉄に乗らず、九龍バスの美孚総站より香港島西に向う長距離バスに搭ることを決め、これなら渋滞も考慮すれば小一時間、少なくともじっくりと車中腰を据えてこの読書に没頭できる筈であり、目的地に到着する迄に読み終えようと自分に命じたのだった。バスは予想より渋滞もなく快適に九龍を走り抜け、私の読書もどうにか下車站までに済ませようと焦燥った。午後十時〇五分、バスが目的地に着く、停留所の数でわずか一つ前に読了。この十八ヶ月に亙る読書を、ここで読了の晩に数行の感想で述べるには、私の読後感の整理がまだつかないのが事実である。ただ一つだけ今晩のうちに綴っておくべき感想は、軍隊において、実はこの三ヶ月の生活のなかで、東堂は精神的に知学的に何も成長しておらぬ、ということ。寧ろ抜群の知識教養を無駄にし、寧ろその知識教養ゆへに疎んじられ、結果的に不遇であったことの事実。軍隊という謂わば喜劇の中でひとり「深刻劇」を演じたこと。いろいろな意味で興味深い。
憲法記念日改憲改憲と現行憲法尊重などしておらぬのなら憲法記念日など廃すべき。改憲の主張もわからぬでもないが、現行憲法の崇高なる理念も弁えず、半世紀以上この憲法有してもその普遍的真理を理解できぬまま、それでいて会得したふりして、実はこの憲法の普遍的真理からどんどん離れ、寧ろこの憲法発布の頃に有した理念など壊滅的に忘却の彼方に追いやり、真の個人の尊厳も自由の勇気も蔑ろにしていて、それでいて、現行憲法の役割は終っただの、憲法改正の意義を説く、その大きな矛盾が理解できず。本当の意味でこの現行憲法の崇高さを会得し、それを咀嚼した上での改憲に非ず。読売新聞の憲法改正試案、自画自賛は恥ずかしきもので、「日本国民は、民族の長い歴史と伝統を受け継ぎ、美しい国土や文化的遺産を守り、これらを未来に活かして」(前文)など普遍法たる憲法にこの文言も読売的な限界だが、それでも一読して「なかなかよくできている」と思うところあるのも事実。だが、
第十一条(戦争の否認、大量破壊兵器の禁止) 第一項 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを認めない。
って、その「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求」する国民が、どうして米国のイラクでの「国際紛争を解決する手段として」の「武力による威嚇」どころか「武力の行使」による「国権の発動たる戦争」行為に自衛隊を遣りその軍事侵掠に加担できようか。読売新聞は憲法改正の試案もいいが、そのまえに自らのこの憲法試案にも反する政府の行為を質すべきではなかろうか。ところでもう二十日ほど前に築地のH君より読んでほしいと言われたのが「ファルージャの目撃者より」で、その掲載されたサイトが益岡賢氏のもの。日本は、イラクのこの米軍の行為をの後方支援。

富柏村サイト http://www.fookpaktsuen.com/