富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

十一月初六日(木)晴。早晩に独り百年ぶりに佐敦の好好上海小館。担々麺注文するなり人の好い給仕頭女(かしらめ)余を未だ覚えていたようで大声で「タンタンそば?」と日本語。そうだと答えると辿々しく「とんかつ入り?」とまた日本語。周囲の客の視線浴び余は小声で「あのさぁ、客が入ってきて担々麺って注文したら担々麺は担々麺でしょうが」とお願いする。相席の対面の女性「そうよね」といった表情。愛想好いのも好すぎると狭い店で日本語での応対など要らぬと思いつつふと壁に貼られた新聞の紹介記事など見れば日本語の観光ガイドなどの記載多く「地元日本人もお勧めのお手軽な上海料理」などと紹介あり。そういえば余もその片棒担いだのも事実。それにしても佐敦にいるのでちょっと気軽に、という程度なら解るがわざわざ観光旅行でまで食すほどかというと疑問。で担々麺なのだが四五年前の開業時にはかなり滬港風味ではあるものの一応担々麺と呼ぶに能ふしっかりぶり、麺のコシも納得だったが本日の担々麺、麺は即席麺の如く細くコシに欠け而も茹ですぎ、汁も担々麺というより湯麺と呼ぶべきスープ状で味以前の問題としてこれが果して担々麺かと疑問。尖沙咀にて高座あり撥ねて二更にY氏と尖沙咀の酒場にて歓談。二人でFoster麦酒7pintは飲み過ぎ。尖沙咀香港島行きタクシー並ぶ天文台道まで歩くと多少ふらつく。帰宅が午前零時過ぎるはかなり珍しきこと。大阪生まれのY氏香港にて事業主のまま東京に一年ほど前に趣味の店出すが来春には店畳みバンコクに移住と。日本も現実厳しいが東京は特に国際都市と言うには程遠い、殊に個人主義理解した京阪の人には理解し難き巨大な田舎。石原は京都市長大阪府知事はできへんでぇ、と。御意。あれが都知事に三百万票得て当選するのだから。勿論東京にも良さはあるのだろうが、とY氏。だがそれも荷風先生ですら嘆いたほどで池波正太郎の頃が限界か。新丸ビル六本木ヒルズなどの誕生で噪ぐが所詮、六本木ヒルズのルイヴィトンが夜遅くまで営業しヴィトンの鞄が小学生のランドセルの如く有印良品として東京に溢れるだけの話。
▼築地のH君らの影響か産経新聞についつい関心あり。先月21日の朝刊の社会面に大阪書籍なる教科書出版会社にかかわる「「つくる会に負けられぬ」教科書採択汚職大阪書籍の元顧問」といふ記事が産経にあり(こちら)。大阪書籍の社員が教科書採用にあたり三重県尾鷲市の教育長に01年に贈賄。容疑者は「当時は『新しい歴史教科書をつくる会』の教科書が話題を集めており、負けるわけにはいかなかった」と供述。扶桑社=産経の「つくる会」の教科書に対抗とは産経にしてみれば「うれしいほど」の贈賄(笑)。であるから、もっと客観的な記事が求められ、例えば、これ。
(事件の事実報道……略) つくる会のメンバーが執筆した教科書は01年に初めて検定に合格、採択対象となった。(略)02年度から使われる教科書採択で大阪書籍は(この尾鷲市を含む地区で)小学校の生活と社会、中学校の国語(書写)と歴史、公民の教科書が採択された。つくる会の教科書は採択されなかった。大阪書籍は前回の採択で付属教材が多く利益が大きい生活科を他社に取られており贈賄の契機になったとみられる。大阪書籍は1909年創立。人権問題などの記述が多いとして、西日本を中心に社会科系の科目で定評がある。つくる会は97年に設立。中学用歴史教科書について、日本の戦争責任に関する記述が少ないなどとして中国や韓国で猛反発が起きた。
と。大阪書籍の教科書は人権などの表記で定評があり、それに対して「つくる会」の教科書は歴史記述で海外の猛反発がある、ときちんと事実は事実として報道。非常に信頼がおける。で、それぢゃこの記事が朝日新聞か、といふとさに非ず。これは実は先月20日、つまり上掲の記事の前日の産経新聞インターネット版での記事(こちら)。産経ともあろうものが人権に優しい大阪書籍の良さを紹介しつつ何を血迷ったか系列の扶桑社教科書へのマイナスイメージ暴露。で翌日はこの引用部分がばっさりと切られるという経緯。網版と朝刊という違いこそあれ網版がよりリベラルということもあるまひに。産経にも常識的な書き手おり、網版は検閲も弛く記事になってしまい、それを翌日の朝刊掲載の際に「なんじゃこりゃ!」ということで余計な背景部分削除、と思えば想像に易いか。余が産経の担当者であらば20日の記事をまず抹殺するが網上に残しておくとは産経の度量。いずれにせよサイード追悼、ローチ監督、護憲派の元産経記者衆選立候補といい、最近、産経内部のリベラルぶり?散見される日々。
文部科学省で「これからの時代に求められる国語力」について検討する文化審議会国語分科会(分科会長・北原保雄筑波大学長)が文部科学相への答申案まとめる。骨子は「自ら本に手を伸ばす子供を育てることが何より大切である」らしいが「価値観が多様化して国際化や情報化などが進むなか」「今日ほど国語力の向上が強く求められている時代はない」(ああ陳腐な表現だ)そうで円滑なコミュニケーションの実現や論理的思考力の獲得をあげる。気持ちは解るが、円滑なコミュニケーションはたんに言語の問題に非ず、社会ぢたいが円滑なコミュニケーションを成立させる基盤をもたず而もその社会が国政を見ればわかる通り論理的思考力に欠けるのが事実。そのような社会だからこそ言葉も劣化。……と思えば答申にもある具体的な「心ぱい」「こっ折」などの交ぜ書きをなくし「ルビ」の活用などだけで十分なのだが、審議会が有識者集めて政府に知恵を与えるように見えて審議会設立から意図的なのは「国策への結びつけ」であり、それゆえに審議会など空洞化し単なる御用団体と化すのだが、この審議会もご多分に漏れず提言するは(結局、ここが大事の真骨頂なのだが)「近年の人心の荒廃は、感性・情緒の欠如に起因する部分が大きいとみて、美的感性、日本の文化・伝統・自然を愛する祖国愛など「情緒力」の育成を国語教育の大きな目標として掲げた」(朝日)といふ点。人心の荒廃⇒感性情緒の欠如⇒情緒力の育成の要⇒具体的には日本文化・伝統・自然への慈しみ=祖国愛とは一笑に付されるべき幼稚な発想。祖国愛あらば人心荒廃せず、と(笑)。日本だけに非ず欧米列強であれ内戦に混乱する国家であれナチス独逸すら崇高なる祖国愛の結果どれだけ他国侵略し国民を殺戮する惨禍を生んだか歴史を見れば明らか。美的感性溢れるテロリスト、日本の伝統文化愛でるアナーキスト、極端な話だが自然保護のため殺人も辞さぬ過激派すら存在するのが事実。三島先生など美的感性や日本の文化伝統が祖国愛と結び付いた例であろうがそれが稀有なのであり(しかも嘘っぽい……笑)対極には荷風先生あり。感性だの文化の素養だのは祖国愛だの愛国心とは一切何ら関係もないこと。その程度の事実は審議会の委員とて理解しているのだろうが(国語学会ですら終に日本語学会に改称せねばならぬ現実)、結局、近代の<国語>なる概念が近代国家建設のための一つの大きな鍵であり、国語について談義する場合に祖国愛の挿入は明治以来今日まで必須といえば必須か。だいたいにおいて祖国愛だの愛国心などといちいち言葉にせねばならぬといふことぢたいその国家が破綻しているといふこと。時代はもはや国家などといふ陳腐な範疇のもっと向こうにイッてしまおうとしているのに、このような陳腐な審議続けて何になろうか。