富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

九月十五日(土)晴。三更にジイド『背徳者』25年ぶりかで再び読む。丁度百年前に書かれ今読めば此れの何処が背徳なのかと首を傾げるほど上流階級の軟弱息子が結核療養の名の下に欧州を旅するだけの話にて、当世にては美しき少年を見つけてはちょっかいだすは「犯罪者」ながらジイドでも『アクアサンク』ほど極みでもなく新潮文庫『秋の断層』のほうがジイド作品としては私は好む。朝起きればアメリカのテロでない一面トップはマイカル倒産、朝日新聞の見出し「総合スーパー「サティ」などを全国に展開し、経営不振が続いていた大手スーパーのマイカル(旧ニチイ、本社・大阪市)は14日……」と続くのだが、これは「総合スーパー「サティ」などを全国に展開する、経営不振が続いていた大手スーパーのマイカル」とするのが正しかろう、あれでは句点を打ってもサティなどの展開が経営不振の原因と読め(実際それもあるが)それなら句点は要らず「全国に展開し経営不振が続いていた」で良し。近年連体形にて句点を打ち係り結びする書き手少くなりぬ。海にて午前新聞雑誌読み午後陽が陰りアーネスト=グルナー『民族とナショナリズム』(岩波書店)読了。カントの普遍的価値観、ウェーバーの「国家とは社会の中で正当な暴力を独占的に使用できる機関」であり「私的、あるいは党派的な暴力は正統性を持たない」など合州国の正統性とイスラム過激派の立場そのもの、ナショナリズムが産業化された社会の国家の体制維持のため生まれたこと、ナショナリズムが国家を生むのではなし!、民族なるものも普遍的必然でもなく、流動的な成員を箍(たが)にて括るための手段、そしてそれを育てるために学校教育があり、共有化という名のもとで一見自由にメディア=情報が流れ、国家も産業化が高度に進み累積的な科学とテクノロジーに基づいた社会こそ人口を扶養することができ(まさに合州国)、そういった高度産業化を遂げた国家が一つの共有分かによってまさにグローバリズムとして存在し(これが見えない<帝国>であることはネグリの"Empire"を読むまでのお楽しみ)、文化的な多元社会など過去の遺産となる、と合州国へのイスラム過激派テロでこの数日狂しくなっていた私の頭には常識を読み戻す格好の書物となる。イスラムについてもかなり言及されており、イスラムがなぜ近代社会でこうして原理主義としてまで強硬に生き延びているかといえば「教義が優雅かつ単純、簡素で、厳格に一神教的であり、衒学的で目障りな装飾物を多く持たないこと」に特徴があり、世界がグローバリズムにて一元化されHigh Culture(高文化と訳しているがイマイチ)が支配する世界にあってまさにイスラムは原理に基づくプロテスタンティズムであり、道徳や政治といった具体的教条の不可避的(?意味わからず、おそらく「敢えて避けた」のはず)曖昧性が故にサウディやナイジェリアの穏健とリビアなど原理主義過激派の両方とも正当化してしまうほどの許容性があり、この柔軟性があえて欧米主流の一元化に同調せぬ要因、とこれも素晴らしき見地なり。ここ数日の溜飲下ル思いなり。良書。馬券少し買いジムにて鍛練。昨日のH氏夫妻、M氏夫妻にM氏の会社関連三氏(テロ騒ぎにて出張中会社の危機感にてフライト搭乗足止め中)と中環・庸記にて会食。M氏贔屓筋にて庸記でも傍扉から上る四樓にて個室、粤式片皮鵝、冬瓜スープ、禮雲子琵琶蝦(新作にて絶品!)、肉厚の石班の酢豚風などなど。冬瓜スープに胡椒かと思えば塩がついてきたのと福建炒飯と海鮮炒麺がちょいと鹹かった以外はさすが老舗と納得。二更帰宅。第7レース馬偉昌騎乗にて贔屓の「心之霊New Asian」が最後の直線外から確実に射して一着、感激す。世は合州国による報復戦争に向けて日一日と経とうとすれば荷風日記読む。
庸記の庸は「金」扁に旁が「庸」