富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

原武史「象徴天皇制を問い直す」(朝日新聞)

辰年二月初五。気温摂氏▲1.4/16.9度。晴。


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銀座で両膝鉤裂きしたズボンの補修仕上がり。よーく見ると修繕跡がわかるが遠目にはわかるまい。日本の誇る技術だわ。

天皇の「象徴」のあり方。平成期とは対照的な「動かない天皇」像が定着。平成の先帝の先覚的なる天皇のスタイル。あいまいだつた「象徴」のあり方を戦略的に確立したが、いはゞ「象徴天皇制のハードルを上げてしまった」。その水準を今上天皇と皇后はクリアできていない。しかし国民から天皇と皇后への批判や苦言はほとんど出ていない(意外)。天皇の存在感の希薄化に伴ふ国民の関心の薄れか。令和は令和で流儀の見直しなどしてゆくべき。

(皇室を)どう存続させるか、ではなく、そこまでして象徴天皇制を維持する必要性があるのか議論すべき段階です。血の純粋性をよりどころにした制度は多様化する社会の統合や包摂を担うメカニズムにはなり得ず逆に排除の論理になりかねません。むしろ右派が逆説的に存廃の話をしているのに左派リベラルは存続が前提の議論ばかりしています。「平成流」を過度に理想化し上皇戦後民主主義の擁護者かのように仰いでいるのも主に左派です。改憲派に対する防波堤的機能を期待する声すらあります。しかし、その時々の政治の否定勢力が天皇とつながろうとするのは二二六事件を起こした青年将校が抱いた理想に近い。筋違いも甚だしい。

近代の天皇制国家は国家神道の整備と大規模な行幸、学校教育によつて形成されたもの。メディアが果たした機能。平成期に天皇皇后が国民に寄り添うイメージを強く刻印。メディアは時代ごとに皇室の権威を高める役割を一貫して担つてきた。「天皇の地位は主権者である国民の総意に基づく」と憲法に明記されているがメディアはそのための自由な言論の場になつてゐない。あの特別な敬称や敬語。平成の天皇退位(おことば)もまるで第二の天皇人間宣言のように称賛されまたがそも/\「国政に権能を有しない天皇が政府や国会を通さず11分間も国民に直接語りかけ政治が動き立法がなされるというのは権威どころか権力の発露」あだが。それを問う声は主要メディアにはほとんど登場せず。新聞もテレビも皇位継承政教分離の問題を扱うことはあっても根源的な問題には踏み込まない。これでは天皇のあり方を決めるべき国民の中に冷静な議論は育たずタブーはいつまでも残つたまゝ。ジャーナリズムは本来の責任を果たすべき、と原先生。そしてそれを報じた朝日新聞は「パンドラの匣」を開けてみせたのか。

(記事編集前)原武史インタビュー:朝日新聞デジタル(以下、紙面記事に出てゐない点の要約)

明仁上皇(平成)
-積極的に行幸繰り返し国民に向き合ひ戦前とは違ふ新たな形態の〈國體〉が国民の中で内面化され天皇制はより強固に。〈象徴〉のあり方を戦略的に確立。よつてもその「務め」が全身全霊で果たせなければ退位。
-その行為により「象徴天皇制のハードルを上げてしまつた。

徳仁天皇(令和)
-疫禍とはいへ近代天皇制の歴史で天皇や皇族がこれほど長期間、国民の前に直接姿を見せなかった事態は異例。
-皇室のイメージが尚「平成流」に規定されてゐるが故に 天皇の存在感の希薄化に伴ふ国民の関心の薄れ。
-権威のhierarchyの不安定化。
-近代天皇制が明治以降の「創られた伝統」であることは歴史学専門の徳仁天皇ならわかるはず。見直すべきものは変えたり廃止できるはず。その新しい象徴像を打ち出す意欲が感じられない。
-退位の「おことば」で11回用ゐられた「国民」は誰を指すのか。移民や在日朝鮮人は含まれてゐるのか*1

万世一系」といふ近代の発想は敗戦と大日本帝国憲法改正で消滅したはずが旧皇室典範の骨格は現典範に引き継がれ、明治のイデオロギー墨守しやうとすればするほど皇位継承の危機に。この状況で悠仁親王と進んで結婚しやうとする人は現れるか。

万世一系イデオロギー*2と血の純粋性を拠りどころにした制度は多様化する社会の統合や包摂担うメカニズムになり得ず逆に排除の論理になりかねない。「和を以て尊しとなす」日本的共同性の「象徴」だった天皇はどん/\時代から遊離している。専ら「日本人」との紐帯のみ強めてきた「平成流」は、そういう意味でも乗り越えなければならない。

*1:これについては明仁天皇は皇室が朝鮮ルーツ言及してゐることに留意。富柏村

*2:岩倉具視が持ち出した万世一系という「血のフィクション」にしても南朝北朝のどちらを正統とするかというやっかいな問題を抱えており、歴代の天皇が確定したのは大正末期。それまでイデオロギーに見合う実体は未完成だった。幕末に倒幕の旗印になったのは事実だが「明治維新の過程で一気に天皇が国民統合の核になり近代国家が形成された」――そんな単純な話ではない、と原武史