富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

水戸市立博物館特別展〈江戸氏 知られざる水戸の戦国時代〉

辰年正月十四日。気温摂氏0.3/3.3度。夜中から雪になり夜明けに外は薄らと雪化粧(積雪2cm)だがみぞれとなりすぐに雪は溶けはじめる(5.5mm)。本日、天皇誕生日天長節が四月末にGWの大型連休だつた昭和、基督の聖誕祭につながる平成を思ふと今日の厳寒なる不順なる天候も春ももうすぐそこにあり、それを待つまことに令和的なもので陛下のお人柄ゆゑ謙虚なるところ。本日、叔父一回忌で法要あり末席を汚す。

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法要の後の会食は昔から親戚付き合ひの旅館にて。玄関に警察の指名手配者の情報で先日亡くなつた桐島さんの笑顔があつた。

水戸市立博物館特別展 江戸氏 知られざる水戸の戦国時代(3月10日まで)参観。水戸といふと徳川御三家水戸藩関ヶ原の戦ひで豊臣方についた佐竹氏が秋田に転封となり……と迄は普通に知られてゐるが佐竹氏が出張る前の水戸は?となるとあまり知られてゐない。平安後期に坂東平氏系の大掾氏が治め15世紀半ばから160年に渡り水戸を本拠地としたのが江戸氏。先月下旬にピアニストの江戸京子さんが逝去。京子さんの父が江戸英雄で筑波の旧作岡村の出。小澤征爾の『ボクの音楽武者修行』にフランスで京子さんは颯爽と登場するのだけれど、この私立博物館の江戸氏展が江戸京子逝去のすぐ後に始まり、さうしたら小澤征爾も後を追ふやうに逝去は偶然、でも何か和声のやう。畏友J君に拠れば江戸氏についての歴史研究が昨今かなり進み注目を浴びてゐるのださう。


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展示を見てゐて冒頭の説明で「あれ?」と思つたのは「大坂」の位置(ちなみにこの地図のマスターは常陸国水戸城絵図)。この説明に拠れば江戸氏の時代、明応五年(1496)に水戸城下の商業地として「大坂宿」が開かれ賑はつたさう。この地図上ではその大坂宿の北に位置する雷神社の西北に大坂がある(以下、坂A)。しかし江戸時代に(上図で)千波湖に近い藤福寺から北(那珂川)方向に「神生かのう宿」と「寺院」の間を「風呂下ふろのした」方向に通る道が大坂町通り。大坂は市街の北から風呂下へと抜ける急坂(今となつては狭い一方通行の坂で、この坂が江戸時代には水戸の主要な交通路だつたとは想像もできないのだが、以下、坂B)。市街地の変遷で大坂と呼ばれる坂の名が坂Aから坂Bに移つたとか?……まさか。


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展示では順路を辿ると先にまた大坂宿の場所についての説明あり。その地図(常磐郷絵図、上下=南北が逆さ)上でのマーキングでは坂Bが大坂。前の地図(常陸国水戸城絵図)では単純に大坂の位置を間違へた?のか。それにしてもこの常磐郷絵図では

戦国時代の大坂は西町北に置かれた舜水堂下を通る坂(現気象台前交差点、北東に向かう坂)で、那珂川方面から大坂を上った付近に形成された宿(町場)が大坂宿と称されました。

とある。「舜水堂下を通る」「那珂川方面から」の大坂が坂A。なので戦国時代の坂Aは江戸時代の坂Bと違ふといふことか。残念ながらそれについての説明もない。受付の職員に尋ねてはみたが本日は祝日で学芸員の方も不在。よくわからないまゝ。なにせ幼い頃に住んでゐたのが地図の「西町」で気象台の前で現在は大坂の下り口に陋宅があるのだから、まさに地元も地元なのでかなり気になる。それにしても気になるのは江戸氏当時の水戸の絵図が存在しないのかもしれないが常陸国水戸城絵図は正保元年(1644)のもので常磐郷絵図となると寛政五年(1793)。それも後者の精度はかなり低いもので、それを元に300年以前!の場所の説明は如何なものかしら。なにせこんな説明も。

本絵図では西町付近の通りが太く描かれており、江戸時代以降も大坂宿付近の街道が主要な道として利用されていたことがわかります。

アタシの見立てでは「西町付近の通り」はけして太く描かれてゐない。西町が太く描かれてゐるのは町エリアの広さでは?。大坂宿があつたといふ「西町」と書かれたエリアの右手(西)に土手があり、その先に道があるが地図上の「大坂町通」と同じ太さだが、それでは大坂宿とは土手(空堀、下の地図の)を隔てゝしまふし、この道は大坂町通のやうには市街地を南北に縦貫もしてゐない。ちなみに、この道は現在の水戸芸術館の東側の道路にあたる。その道の北(下)で上金町から風呂下に坂があるが、これは坂Aではなく桜坂(水戸藩で光圀公の幼少期に奥女中であつた「高尾」の屋敷があり高尾坂ともいはれる)。

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考へれば考へるほど、この展示の説明がよくわからなくなつてしまつた。この展覧会の図録を入手して精読しようかと思つたが好評につき売り切れ。会場にあつた図録を見たかぎりでは大坂の位置についてのそれ以上の説明はないやうだつた。