富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

夜明けの同僚

辰年正月初二。気温摂氏0.8/11.8度。晴。

村上春樹「小澤征爾さんを失って」朝日新聞

一昨晩から小澤征爾訃報についての文章をいくつも読んでゐて村上春樹のこれこそ秀逸なる至高なる明文だと思はされた。

指揮者にはいろんなタイプがいる。(略)征爾さんはあまり感情を表に出すことなく、ゆっくりと、ひとつひとつ丁寧に細部のネジを締めていく人だった。オーケストラの出す音に注意深く耳を傾け、問題があればそれを指摘し、どこがいけないかをユーモアを交えてフレンドリーに説明し、その部分のネジを締める。それを何度も何度も繰り返して、彼の求める音を、音楽を、辛抱強くこしらえていく。(略)不思議なことに、彼がネジをひとつ締めるたびに、その音楽は少しずつより自由で、より風通しのよいものになっていくのだ。そのことはいつだって僕を感心させた。(略)征爾さんの場合は、ネジをぎゅっと締めることによってその結果、驚くほどすんなりと演奏から肩の力が抜けていくのだ。そしてその音楽はよりナチュラルな、より柔軟性を持つものとなっていく。生命が吹き込まれていく。(略)そこには過度なメッセージ性もないし、大げさな身振りもないし、芸術的耽溺もなく、感情的な強制もない。そこにあるのは、小澤征爾という個人の中に確立された純粋な音楽思念の、虚飾を排した誠実な発露でしかない。彼はそれを立体的な音像として、満席のコンサートホールに鮮やかに再現することができた。作家が文体を真摯に追求すればするほど、文体自体が消えていって見えなくなり、あとには物語だけが残る――そういうことが小説の世界にはある。征爾さんの晩年の演奏は、あるいはそういう熟達の境地に達していたのではないだろうか。

セイジオザワが夜明け前に一人、スコアを精読してゐたことは有名な話。ハルキムラカミもそれに倣ひ夜明けに原稿を書いてゐたのださう。

「夜明け前の同僚」が今はもうこの世にいないことを、心から哀しく思う。

平易な文章で最も大切なことをきちんと表現できるのが文章力といふもの。さすが長年に渡りノーベル文学賞候補に名前の上がる書き手だけのことはある。


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正月用にと母からもらつた鈴廣の蒲鉾の板があつたのでマグライトを置くホルダーを削り始めた。マグライトが立てれば倒れるし横にしておいても転がつて不安定。ストラップをつけることで(マグライトダンヒルのストラップもストラップの方が値段は高いか)転がつてテーブルから落ちることはないが。そこでホルダーがあれば、と思つた次第。


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本日、午後の或る会合に末席を汚したのだが、そこで和歌山だつたか?の生マグロと松前だつたかの生ウニが供された。パーティとか食事は避けるが、このマグロとウニだけはいたゞいた。本当にこれは美味。晩は家人と陋宅から遠くもないビストロで。蝦夷鹿肉のステーキをシェア。

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今日の昼間に抽斗など整理してゐたらポチ袋がこんなにあつた。いろ/\違ふ柄のものを買つてゐたつもりが、かうして並べてみると色合ひとかやはり自分好みは同じやうなものばかり。