富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

黒川の王祇祭その③

癸卯年十二月廿三日。気温(鶴岡)摂氏▲2.3/9.4度。雪(5cm)のち曇。
朝六時前に脇宿から当屋へ。夜通しの能の舞台はすつかり撤収され王祇様をお宮にお帰りいたゞく準備を済ませ王祇守りや提灯持ち、その警護の子どもらに朝食のお振舞ひ。また朝から世帯持がてきぱきと配膳し御酒を振る舞ふ。こちらも朝から勧められるまゝに酒を飲む。昨日から気になつてゐたがこの当屋となつた公民館の別棟に湯気や煙が寒空に上がる建物あり。そちらを覗かせてもらふと炭で弁慶めし*1レシピ)を焼いてゐる。ここで豆腐や餅が焼かれてゐたのだらう(公民館の厨房は出来上がつたご馳走を温めるのと配膳のみ)。

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食事のあと安置されてゐた王祇様が高所から降ろされる。それを王祇守りが春日神社のお社まで送り届ける。

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昨晩からの神事や能の行事は他所者が勝手に画像や動画を撮影して更にSNSやブログなどに上載するものではないと憚るところだが、この行列の出発だけは一枚だけ載させていたゞかう。私らはこれを見送り脇宿に戻つたが、このあと上座のこの行列はお社下の榊屋敷に立ち寄ると、そこにはすでに下座の王祇様が待つてゐて下座の大地踏が舞はれてゐるのださう。そこに上座の王祇様は落ち合ふことになるのだが予め上座から「宮のぼり」を下座に促す「七度半の遣ひ」が出て、そこから「朝尋常」になる。これは上座と下座の王祇様が神社の階段を一緒に登り始め、途中で合図ととゝに両座競争で王祇様を神社の社殿に担ぎ入れ王祇柱に王祇様を立てかける。脇宿を発つにあたり荷物をまとめ旅荷持参で春日神社へ。午前10時からの両座共演の能が始まつてゐる。神社の本殿の中央を能舞台として舞台の周りに両座の頭人、王祇守りらや座の「長人衆おとなじゅう」と呼ばれる裃姿の長老たち*2が提灯を前にずらりと並び、その中で脇能で上座の〈難波〉と下座の〈大社〉の二番、両座共演の大地踏と式三番(所佛則ところぶっそく*3による)が舞はれる。春日神社の社殿で神聖なる能の奉納なのだが黒川の人々は両座がそこで交はつた新年の祝賀でまぁよく酒を注ぎ注がれわい/\と賑やか。アタシらも勧められるまゝに飲みながら火鉢にあたりながら寛ぎつゝちらり/\と能を眺める。何とも夢のやうな、黒澤明ならこの空間をどんな劇映画にするか、と思はされる想像以上に精神的な温もりを感じる異界の入り口のやうな空間がこゝに。下座の〈大社〉が終はるところでアタシらはタイムアウト。予約しておいたタクシーで湛君、Y氏と三人で鶴岡市街へ。途中、鶴岡郵便局に寄つてもらふ。


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鶴岡駅売店で何を買ひ求めたかといへば缶ビール。とにかく三日、朝から昼、夜まで御酒をたんと飲んで、それはまことに美味しく、寒さのなかで悪酔ひも一切なかつたのだが何で喉を潤したいかといへばビールなのだつた。ところで本日の能でも長人衆らが昔は御酒だつたのに昨今はビールを飲む方も多く舞台を見守らないといけないのに寒さで小用に席を頻繁に立つ……と昨晩苦言を聞いてゐたが、それは実際にその通りだつた。

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鶴岡から特急いなほで新潟へ。車中も三人で吉田健一的に酒盛り。湛君が「いなほってディーゼル列車ぢゃなかった?」と。そりゃ昭和47年まで(笑)。もはや年寄りか、志村と柄本の芸者コントの世界で貸借りの520円返してもらふ。上野から鶴岡を経由して酒田、秋田を結んだ特急いなほは昭和44年に運転開始。昭和47年に羽越本線の電化で485系の電車特急が導入され上野〜秋田間が7時間半だから鶴岡〜上野は6時間半くらゐ。それが昭和57年に上越新幹線開業で特急いなほは新潟発の接続特急にいはゞ格下げ。新幹線に乗換へたところで鶴岡から東京まで丁度4時間かゝるのだから当時の乗換なしでの6時間は酒の盞を交はしながらの旅ならそっちの方がよほど楽しかつただらう。

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新潟駅羽越本線が5番ホームに到着すると、同じホームのフェンスの向かふが上越新幹線で乗換改札口を通ればバリアフリーで新幹線に乗車可。その新幹線車両の反対側(左)が11番線。これはまことに便利。上越新幹線は新潟では3割ほどの乗車率なのだが全席満席と車内放送あり。途中で最も乗車客が多かつたのは越後湯沢で台湾を含む中華圏の旅行客多数。彼らの多数が大宮で下車なのは、湯沢での雪遊びのあと東北や北陸に向かふからなのだらう。

今ころ黒川では社殿で奉納の能が終はり両座の若者が競争で柱によぢ上り王祇様を社殿の高い棚に担ぎ上げる「棚上がりの尋常」が挙行され、来年への「当屋渡し」の盃事、若衆らへの慰労の酒の振る舞ひがあり亦た両座の競争で棚上に吊つてある一斗餅!の縄を切つて落とす「餅切り」や王祇様を棚から下ろして衣を剥ぎ衣を来年の当屋の首に巻き付ける「衣剥ぎ」が賑はひのなか挙行されてゐるのだらう。そのあと当屋で精進落としのお振舞ひとなる。神様は黒川の人々のその喜びを見届けて神御蔵へお帰りになる。神さまと黒川の人々の五百年に渡るこの神事が毎年厳かに(ではないが賑々しく)綿々と続いてゐる。

*1:弁慶めしは青菜と世帯持の方から聞いてはゐたが青菜とはいつても全国的な「アオナ」ではなくこちらのは山形特産の「セイサイ」で葉が薄く漬物やおにぎりを包むに適してゐる。

*2:長人衆はいずれ当屋勤めることになる家の主人たちだそう。自家に王祇様迎へる日が来るまで毎年の王祇祭、能舞台を見守つてゐる。

*3:(以下、引用)公儀の翁は能太夫(座長)が舞ひ王祇祭以外の祭りでも演じられますが「所仏則の翁」は上座の翁太夫である釼持けんもつ源三郎家に一子相伝で伝わるもので、この家の者しか舞うことが許されません。所仏則の翁は黒川にしかない独特のもので、王祇祭以外ではいかなる場合にも行われず、櫛引町史「黒川能史編」では「能が始まる以前にも芸能があったが、能楽が入ってきてその時に創造されたもので、前からあった芸能と完全に絶縁するに至らず、在所においてのみ演じる仏式の能という意味で“所仏則”と呼ばれたのでは」と分析していますが正確な由来はわかっていません。