富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

美濃部美津子『志ん生一家、おしまいの噺』

癸卯年八月初七。気温摂氏21.9/29.3度。曇。彼岸を前にやつとほんの少しだけ涼しくなる。

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夕方はなんだかすごい南風で(気象台では13.5mほどの数字なのだけど)繁華街を歩いてゐたら南町3の角の横断歩道で盲の方が信号待ちで踏ん張つて立つてゐるので思はず大丈夫ですか?と声をかけたら状況を尋ねられる。盲であれば豪雨でも近づいてゐるのか瞬時に視覚で判断もできない。風だけで天気が崩れさうにもないと答へて彼女のバス停まで暫く同行。大通り(国道50号線)を跨ぐ横断歩道の信号に音響もなく押しボタンも撤去されてしまつたさう。国道に沿つた方は微かに音響信号があり、その音が鳴り止み自動車の走行音が失せたときに勘で信号が青になつたと認識して横断歩道に一歩出るのださう。まさに命がけ。国道だから国交省の管轄なのかしら、と彼女がいふから国道でも県、市道でもとにかく市役所の道路管理課に連絡すれば今は「うちの管轄じゃない」と無碍にされることもないですよ。アタシが電話しておきますとと彼女と別れる。おそらく市立中央図書館で点字図書とかの作業をされてゐるのかしら。

志ん生一家、おしまいの噺 (河出文庫)

美濃部美津子『志ん生一家、おしまいの噺』読む。追想録のネタは昨日読んだ『三人噺』とほゞ一緒。あちらがダイジェスト版でこちらが思ひ出語りのオリジナル原稿に近いのかもしれない。「おしまいの噺」といふタイトルも悲しいが事実、美津子を残して母(りん)、志ん生、馬生、妹(喜美子)、志ん朝の順で大切な家族が一人/\あの世に旅立つてしまふのだから。何よりも一番可愛がつてゐた弟・志ん朝の急逝が残念でならない姉。志ん生は危篤から復活して最初の一言が「酒をくれ」だつたとか大酒飲みの印象が強いが家では夜になるとコップ酒で一、二杯飲むだけだつたさう。その危篤となつたのが昭和36年12月に読売巨人軍の優勝祝賀会で余興に円歌と呼ばれたのだが選手か関係者らがビュフェの飲食にうるさく落語を聞く気もないことにカーッとして倒れたのだといふ。やはりジャイアンツが悪い。野球といへば志ん生は野球のことが何もわからず弟子の圓菊が二つ目のときに野球チームを作り試合のあと帰つてきたら圓菊から試合に勝つたと聞いて同じチームの弟子たちに「おまえは?」「おまえもか?」と勝つたのか何うか尋ねたさう。昭和46年に妻(りん)を亡くして葬儀までは悲しみを堪へてしつかりとしてみせてゐたが翌朝、黒門町逝去とラジオで聞いて盟友文楽の死に「みんな死んじまった」と声を上げて泣いたのださう。志ん朝噺家にならうと決意して志ん朝の守り本尊は谷中の虚空蔵さまで虚空蔵の遣ひは鰻だからと母に言はれ一人前の噺家になるためウナギ絶ちをして、それを死ぬまで40年続けたのだといふ。天才といはれた志ん生から馬生、志ん朝、じつに稽古熱心な噺家志ん生は死ぬまで枕元に圓朝全集を置いて勉強してゐたといふのだから。