富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

三島由紀夫も嗤ふ戦後の哀れよ

農暦七月初七。七夕。気温摂氏25.7/32.8度。晴。多湿。

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自民党政権森喜朗が出てきたとき「こんなバカでも首相になれるのか」と驚いたが晋三の登場で「戦後の日本政治史上最大のバカか」と呆れガースーも首相になると「晋三の方がまだマシ」とすら痛感され絶望的。だが岸田が「宏池会のプリンス」で久々の宏池会政権に多少なりとも自民党も少しは自浄作用あつたか、と僅な期待もされたところキシダの思考停止ぶりは喜朗、晋三にガースーの方がまだマシと思へる程の最低最悪の思考停止で余りに言葉もなし。こんなのをプリンスとしたのだから宏池会もこれで終はり。もう自民党が少しでもマトモに「ブレる」こともないだらう。かといつて自民以外の野党も立憲も不甲斐なく、まさか代々木がこれ以上政権に近づけるはずもなく日本の政治なんて、もうダメもダメなのだらう。何の救済策もない。それにしても福島疫禍での汚染水放出にせよ地元の魚連関係者と会つても「約束は破られてはいないけれど果たされてもいない」とワケのわからない文言で最後は「一定の理解を得られた」と言ひ放つ。戦後の思考停止のまさに極み。これほど政権がバカでも何も救済策も考へぬ日本国民こそ亡国の主なのだらう。三島由紀夫はあの世でさぞや大笑ひしてゐるのではないかしら。

「三島由紀夫」とはなにものだったのか (新潮文庫) 三島由紀夫論

橋本治「三島由紀夫」とはなにものだったのか 』を再読したのは平野啓一郎三島由紀夫論』を読んで、恐らく「解毒剤」を欲したからかもしれない。表紙の装丁は見ての通り橋本と平野のいずれも三島の新潮文庫版のそれの模写。橋本の三島論は、さすが第1回の小林秀雄賞受賞だけあつて秀雄も「恐れ入谷の」で三島をこゝまで煮てみせるのか、の橋本治ワールド。それにしても橋本治好きにとつては傑作かもしれないが『ひらがな日本文化史』だとか『大江戸歌舞伎はこんなもの』に比べると、この三島論は「狙ひ」が露骨すぎて少し下品かもしれない。

(三島が)「市ヶ谷の自衛隊駐屯地で自決」というようなことに、私はまったく関心がなかった。私に関心があったのは、「その死の直前に最後の原稿を渡した」という事実だけだった。そういう事実があるなら、それでしかないのである。そのようにしか思わない私にとって、「三島由紀夫の死」は「文学的な死」でしかなかった。

三島の『豊穣の海』の『暁の寺』について。

清玄の挫折する同性愛心中を見せる「江の嶋児(ちご)ケ淵の場」は、昭和42年の国立劇場で、江戸の初演以来初めての再演を見た。この年は、三島由紀夫が『暁の寺』を発表する前年である。この時三島由紀夫は、国立劇場の理事だった。ちなみに、縦の会の閲兵式が行われたのは、彼が理事を勤めるこの劇場の屋上である。これ以前の昭和34年、『桜姫東文章』は、六世歌右衛門の主演で、発端の「江の嶋児ケ淵の場」を欠いたまま、復活上演されている。三島由紀夫は、監修者としてこの上演に関わっている。桜姫を「愛すべきもの」として、文章も書いている。その後ポピュラーな演目になってしまった『桜姫東文章』を、三島由紀夫がそれ以前に熟知していたことは明かである。『暁の寺』は、『桜姫東文章』の書き直しなのである。

それ相応のことを述べてはゐるが些かまわりくどい文章で、整理されてゐない上に、独特のクセのある橋本調の文章はわかりづいかもしれない。簡単に橋本治が何を言ひたいのか。

三島由紀夫の『豊饒の海』の『暁の寺』は『桜姫東文章』の書き直しだと思われる。『暁』が発表されたのは昭和43年で、その前年に国立劇場で『桜姫東文章』が上演された。実は『東文章』の最初の復活再演は昭和34年に歌舞伎座。六世歌右衛門の主演で、三島はそれに監修として関わっている。但しこれは清玄と稚児白菊丸の心中という物語の発端である「江ノ島稚児ヶ淵」の段を欠いたものだった。8年後の国立劇場で、この「児ヶ淵」も初めて再演された。そしてこの頃、三島は国立劇場の理事で、縦の会の閲兵式が行われたのは、彼が理事を勤めるこの劇場の屋上だった。

とでも書いてくれゝばよいのに。
ちなみに昭和34年11月の歌舞伎座での〈東文章〉の復活再演では桜姫は六世歌右衛門、釣鐘権助・清玄に幸四郎Ⅷ。「江ノ島稚児ヶ淵」の場を復活再演(昭和42年3月)では清玄は勘弥、白菊丸を勘弥が養子にした玉三郎(当時16歳)が演じてゐる。桜姫は先代雀右衛門権助三津五郎Ⅷといふ配役。三島はこれも監修。〈東文章〉を橋本が「その後ポピュラーな演目になってしまった」と書いてゐるのは、当然あの孝夫と玉三郎による共演によつてなのだが(この作品がポピュラーになることに何か残念があるのかしら)「三島由紀夫がその以前に(東文章を)熟知していたことは明らかである」と橋本。そりゃさうであらう。勿体ぶつて何を書いてゐるのやら……このディスクールこそ橋本治の熱烈なファンか、あんなキモいやつ、の境界線だらう。

それにしても縦の会の閲兵式が皇居前広場ならまだしも国立劇場の屋上で行はれてゐたといふのだから誰だつて、それを芝居か茶番と思ふだらう。まさかその後、本当に三島が縦の会の若者を引き連れ市ヶ谷の大本営に闖入して自衛隊に決起呼びかけ切腹斬首の死を実行してみせるとは……。国立劇場にとつて今回の取り壊しで思ふことは歌右衛門の「先代萩」、八重子の「滝の白糸」そして菊五郎の長年の地道な公演などあるなかで、三島の縦の会のこの閲兵式は国立劇場での企画の中でも最も空想的、創造的なパフォーマンスのではないのかしらといふこと。

橋本治は『豊穣の海』を「日本の幻想文学の第一位」とまで言ひ放つ。だが三島はさういはれても喜ばないと治ちゃん。何故かへば『豊穣』が幻想文学の第一位といはれたら、それは三島にとつての「失敗」。もし『豊穣』が幻想文学なら『豊穣』を書き終へた三島は「自殺なんかする必要もない」。

言うなれば、三島由紀夫は『豊穣の海』を幻想文学にしないために自殺したのだ。

それでも橋本治がパラレルに三島のファンであることは文章の節々に散見される。

『春の雪』を読む22歳の私は、ほとんど女である。私の態度は、「恋愛小説だと思って読んでのに、どうして恋愛にならないのよ。きっと恋愛すればいいのに、ほんとに焦れったいものね!」と怒っている女のそれと同じである。

と治ちゃんは叫ぶ。恋愛小説のほとんどは女が主人公で女が男に惚れる恋愛小説の読者は女ばかりだから、それを読む自分=男も女にならざるを得ないといふ。逆に男が主人公の恋愛小説の場合、恋愛とは「相手と一つになりたい」衝動だから女に恋する男は「女になりたい」ため自分の男性-性を希薄にする。その典型が光源氏光源氏には「設定だけあって人格がほとんどない」のは『源氏物語』が女の読者を対象に書かれたれない小説だからで光源氏が「男」として立ち塞がつてゐたら読者は「女」に近づけない。それで恋愛小説の主人公の男は「男性以前」にあるやうな少年か青年であるのはそのためで「なんだかはっきりしない男」であることが恋愛小説で肝心だと橋本治は力説する。『春の雪』の松枝清顕について。

この三島由紀夫本の出色は、やはり第二章の「同性愛を書かない作家」だらう。『仮面の告白』や『禁色』を読めば三島が同性愛について書いてゐることは明らかだが橋本治がなぜ三島を「同性愛を書かない作家」としてゐるのか。これは三島の同性愛的な色彩の濃い作品のなかに登場する女性(例へば『仮面の告白』の園子)の存在の面白さなのだ。

私(橋本)は、三島由紀夫の作品のいくつかを、「幻想小説と化した三島由紀夫私小説」だと思っている。その物語の主人公は、「その物語の主人公」とならざるをえない必然を抱えた、三島由紀夫自身なのだ。(略)物語の中に入り込んでしまった三島由紀夫の人生は、それゆえにこそ始まらない。始まらない人生に対処するため、三島由紀夫は彼の作品の中で、その対処法をあれこれと考えている。三島由紀夫が物語の中に設定したディティールは、自分の現実をクリアにするために設定した「認識の材料」で、現実を持たない彼の「私小説」は「現実に対するシミュレーション」であることによって、「彼自身の実生活を写すもの」となりえるのである。

こんな「よくワケがわからないけど何か大切に思へること」が、やはり第1回の小林秀雄賞に値する評論の文章なのだらう。こんな修辞が評論で大切なのかしら。アタシは個人的には村上湛君の劇評のやうに「読めばわかる」きちんとした評が評論だと思ふ。橋本治三島由紀夫を論じるときには何も覚悟が必要ではないから(リアルな時代性もないから)小林秀雄的な講釈が延々と続くことが許されるのだらう。

『サド公爵夫人』について。文学座の分裂。三島由紀夫にとつてそれは「演劇界での母」杉村春子との訣別。昭和38年のそれがあり翌年、水谷八重子に『恋の帆影』を書くのだが昭和40年に上演される『サド公爵夫人』について橋本治水谷八重子の公爵夫人ルネと杉村春子のモントルイユ夫人という配役で上演されるべき作品だつたとする。実際にそれは紀伊國屋ホールで劇団NLTにより丹阿弥谷津子(ルネ)、南美江(モントルイユ)で初演となつた。三島にとつて杉村が「演劇界での母」なら水谷は「演劇界での三島由紀夫自身」のやうな女優。「前近代によって進む道を阻まれた、女の形をした近代」が水谷で、杉村は「前近代に頓着することのない、近代の形をした女」。三島は前者で、三島の母が後者。
松本清張について。三島はなぜ清張を受け入れられないのか。清張は三島に何ら心配もない。三島由紀夫の側に立つと清張作品はどのやうに見えるのか。「大人の小説」。それに対して三島は自分の小説が「子供のような、こじつけ小説」に見えてしまふ。

三島由紀夫はどこかで、自分の作品、そして自分の人生が、観念だけで作られた細工物のようだと感じていたのである。だからこそ、それを「観念ではないぞ!」と言えるところまで、周到にして綿密な論理で埋めて行ったのである。その行為そのものが、彼の感じた原初の不安を裏書きするものであることも知らずに。