富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

弓削徳充『水戸上市の面影 明治中頃より大正』

癸卯年七月初四。気温25.8/33.1度。晴。また4日ほど夕立どころかお湿りもなし。お寺の閉門前に墓地に水やりに行く。


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電柱の電線で老朽化した架線工事が行はれてゐた。付近の住宅に停電もなく電気を通したまゝ慎重な行程の工事が進んでゐた。猛暑のなか汗だくの作業員。かうした技術者のおかげで保全がなされてゐると思ふとバカな、ロクな仕事もできない方々が汗をかくこともなく厚遇であることは本当に世の中おかしいと思ふところ。

弓削徳充『水戸上市の面影 明治中頃より大正』(国立国会図書館サーチ)読む。昭和28年5月に上梓(非売品)。弓削家は水戸の江戸時代から続く名家の一つで徳充氏は専ら実業で経営者。文筆から遠い人だつたが水戸の下市に関するこの類ひの本が出たことに触発され上市、三の丸の名士として自らの記憶や聞き取りで、この本を纏めたのださう。徳充氏の(おそらく)子息が市議(共産)だつた弓削徳介さんで『水戸城考』(昭和50年)の著者。細かい人名などを除くと大凡そ何かしら知ることで「えっ!」といふやうな驚きはなかつたが(なにせ、この方たちの次の世代が祖父母であるから昔語りで何かと聞いてゐる)明治19年の上市大火と、その後の都市計画については知らなかつた。当時の県知事であつた安田定則(薩摩出身!)による大胆な市街地の再建計画。

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何よりも今の水戸駅(西口)から南町に至る「銀杏坂」の通り⑥がこの時に空堀を埋め立てた傾斜地に通された道路であること。この都市計画以前は水戸東照宮が三の丸と空濠をはさんだ南側の小高い丘、しかもその南側は千波湖(埋立て以前)に屹立してゐたこと。具体的に戦前の市街地図にこの明治19年大火後の道路計画をおとしてみるとわかり易い。

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この『水戸上市の面影』は上市の当時の賑はひを語り残す意図なのだが実ハ横山大観横綱常陸山など下市出身の大家が多く実業でも下市が当時は商業地であることも書いてゐる。その上で、それでも水戸は商業が振るはないことを述べる。

藩政時代もそうだつた如く、明治から大正にかけ昭和になつても、水戸には事業らしきものは起らぬ。他郷人が段々入り込んで来た今日でも、事業と名のつく様なものは皆他郷人で、生え抜きの水戸人の手にかゝつたものは極めて少いように思う。(略)商売がヘタというよりは商売向きの性質が備わらなかつたのかも知れない。といわれてみると成程純粋の水戸人が余りにゴツ/\しているのは爭えない。

確かに。水戸の殿様商法といふか客に対してぶっきらぼうな接客は他郷人を驚かす。ナントカはありますか?に「あるよ」。何か手にすれば「買うのけ?」で「ありがとうございます」と客に頭を下げるやうなマネすらしない。それでも上市では泉町2の福田屋洋品店が70年代にカジュアルファッションの「ポイント」となり成功して現在は「アダストリア」に化けた例や下市の家電店のカトーデンキが大手家電のケーズデンキとなつた稀な例こそあるにはあるが。かういふ記録を読むと昭和の戦後の賑やかだつた街並みについてもアタシらの世代でも記憶を記録として残しておかないと何も残らないと思はされる。それでも「過去はこんなに賑やかだつた」の悲しい回憶だけでしかないのだが。

伊東豊雄が設計の水戸市民会館についてさんざん罵詈雑言を並べてきたアタシだが一番の問題はコンペで外観を木造とするとしたアイデアを引つ込めて建築学科の大学生の習作でしかないやうなガラス面の「どこにでもある外観」にしてしまつたこと。それについて家人が雑誌(Pen)の建築特集記事で伊東先生が星加坡の南洋工科大学に建てた木造校舎の記事を見せてくれた。木造で外壁は天井部も地階も風どころか大雨なら建物の内部も濡れるやうな、いかにもアジア的な風通しの良い建築を実現させてみせてゐる。なぜこれが星加坡ではできて水戸では、あんな陳腐な構造物になつてしまつたのか。残念でならない。