富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

能楽囃子方五十年―亀井忠雄聞き書き

癸卯年五月廿三日。気温摂氏24.2/33.9度。晴。代々木系の病院に2か月に一度の定期診断に出かけたら、さすが代々木系だけあつてマイナ保険証のマの字もない。紙カルテを電子カルテにしたやうで診断前の問診(といふ名の事務手続き)も省略したが結局その職員が待合室で患者の名前を呼び書類を手に歩き回り仕事は逆に増えてゐるやうで電子化が効率化しておらず寧ろ病院滞在時間が長くなる結果に。

暑くて食欲もなくお昼は「みかは」で天おろし蕎麦、夜は自宅で冷汁

能楽囃子方五十年―亀井忠雄聞き書き

能楽囃子方五十年―亀井忠雄聞き書き』(岩波書店)読む。先月三日にお亡くなりになつた亀井先生が還暦を過ぎてまもなくの1992年の発刊でもう20年以上前の芸談、インタビュー集。この3年これだけ亀井先生の小鼓を聴かせていたゞく機会に恵まれてゐたのだから、もつと早くに読んでおけば良かつた。亀井先生の急逝で、これを読むと、その言葉、人柄に触れ本当に悲しさも増すばかり。亀井先生にとつても最も重要な先達が観世寿夫。

寿夫さんは想像でなさったものもいっぱいあるだろうけども、やっぱり調べて調べてというふうな方だからね。いつだったか磯崎新と会うんだといって大分前から建築の本を読んでいるんだ。そういう人だからね。かなわないよ。「この節はどうしてこうなるのか」と聞けば「これは大和民族と葛城民族が……」ってそんなこと言われてもね(笑)。

幸先生が「寿夫君気の毒だね、自分で舞って自分で謡えないものね」っておっしゃってた。それは暗に地謡が弱いよってことをおっしゃったんだろうと思う。寿夫さんだってシャカリキになって地謡を育てようとした。地謡がどんなに大切かということを一番わかっていたんだから。

鼓は大小だが亀井先生ともなると隣(つまり小鼓)に「ヘンな奴」つまり下手な奴がくると、もうやってゐられないといふ。鼓を打つ技量だけでなく掛け声だけでも下手は困る。頭取の隣に「どんな奴」が来るか。バカヤロウ。能といふと上品なイメージがあるが亀井先生は江戸っ子で落語の名人の小言のやう。

(金剛の家元による〈乱〉について)バレリーナみたいだね、あんな足使いがあるんだよ。(それで流儀によって大鼓がテンポを変えたりするんですか?といふ問ひかけに)大鼓じゃないって(笑)。(だってやっているじゃないですか)私はそんな不遜なことはしないよ。

とにかくネタとして可笑しい。厳しいと言はれれば自らを「仏の忠雄」と言つてみせる。

子供のころ、楽屋で幸祥光先生の話を聞いていたら「デパートに行ったらエスカレーターというのがあって、あれは素晴らしい」と言うんだ。そこにいたのは安福春雄さん、金春惣右衛門さん、藤田大五郎さん、それに幸宣佳ですよ。私は親父が倒れちゃったから代わりにそこにいたんだ。
幸祥光先生が「エスカレーターの「間」は凄い」って言うんだよ(笑)。言うことが凄い。みんなこのおやじはいったい何を言いだすんだって思ってる。そうしたら幸祥光先生がね、「素晴らしい、あの「間」は。狂いがなく届くんだね」って言うんだ。そんなの当たり前じゃないかと思うよね(笑)。エスカレーターの「間」が狂ったら大変でしょう。そう思ってると「お能の「間」はあれじゃだめだね」って言うんだ。
能の「間」は違うってね、今のお歴々に話しているわけ。そういう言い方をなさる。そういう話を若いときに聞けたという幸せはいっぱいある。川崎九淵先生と幸祥光先生と親父の亀井俊雄が昔は一つの火鉢にあたってた。冬にはそのメンバーしか火鉢にはあたれないんだ。川崎先生のお供をいていた御蔭でそのそばにいられたんですが、それでいろんな話を聞かせてもらいました。

本当に今となつては貴重な亀井先生の金言なのである。

これまでに先輩や名人たちがやってきたことを伝えていかないといけないと思う。そうしないと、ここで切れてしまうんだ。継承してつないできたものが切れてしまう。ただ舞台を日々勤めていればそれでいいんじゃない。命がけでつないできたものがあるということを知っていないといけないんだ。能がどんなに盛隆をきわめても中心は抜け殻だということになってしまう。(略)私自身が恩義を受けた過去の名人たちへの感謝の気持ちもある。いったいこれまでの能が、何を大切なものと考えて芸を継承してきたのかを、言っておきたかった。将来にわたって能が継承されていくにしても、その大事な中心は変わらないと思う。

まさに二代目吉右衛門が指摘してゐたことと同じ。伝統芸能の芸の継承。