富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

The Great Leveler - Violence and the History of Inequality

癸卯年四月初二。気温摂氏16.3/21.9度。曇。

明治座の芝居で市川團子は「期待」の通り猿之助の代役を見事に演じてみせた。

團子は1日だけの稽古で、大陸に渡った平家の武将(知盛)を堂々と演じた。歌唱シーン、スピード感ある立ち回り、情感ある芝居を見せ、愛する人と別れるシーンでは、場内のあちこちで目頭を押さえる観客の姿が見られた。クライマックスでは宙乗りを見せ、大きな拍手を受けた。幕が下りても10分近く拍手が鳴りやまず、スタンディングオベーションでたたえられた。公演を見た観客は「19歳とは思えない演技でした。感激しました」「(澤瀉屋の)血を感じました」という声も聞かれた。

近い将来の五代目猿之助襲名への希望。四代目のしくじりなどもう帳消しにして澤瀉屋はリセットされる。騒動から三日目での「結末」。このあとは四代目の騒動の「事実」が少しずつ明らかにされ、されたところで「悍ましいこと」だから記憶から消去に向かふしかない。人々はもう次へのまなざしに向いてゐるのだから。何らかの形で四代目が「復活」して、もう一度脚光を浴びることがあるかもしれないが、それはアウトローとしての亜流でしかないのでせう。

暴力と不平等の人類史―戦争・革命・崩壊・疫病

Walter Scheidel著『暴力と不平等の人類史 戦争・革命・崩壊・疫病』(鬼澤忍・塩原通緒共譯、2019年、東洋経済新聞社)通読。五百余頁の大著でまさに通読。原題は“The Great Leveler - Violence and the History of Inequality from the Stone Age to the 21st Century”で“Leveler”の譯がとても難しい。威力的な平等主義者とか差別撤廃論者とか……だが、こゝでは「人」ではなく、さうした装置のやうなもの。邦題はこの題を避けて副題の“Violence and the History of Inequality”を「暴力と不平等の人類史」としたのだが、この部分も正確に訳せば「石器時代から21世紀までの暴力そして不平等の歴史」であつて、さうすると、この“The Great Leveler”が実は「暴力」そのものであるとわかる。人類にとつての不平等を解消のための暴力の歴史。「既存の膣錠を破壊し所得と富の分配の偏りを均し貧富のさを縮めることに大きな役割を果たした」ものが「暴力的な衝撃」。戦争、革命、崩壊、疫病。さうした「4つの騎士」が効果的な役割を担つたのは社会的混乱で「多くの人が貧しくなるとしても富裕層は失うものをより多く持っていたから」で資産の減少が大きかつたから。しかし現代の状況を見てみるとロシアのウクライナ侵略に見られる「戦争」も核の時代は「抑止されたもの」でウクライナの大統領が戦争中に!広島サミットに出席できてしまふ。その飛行機をロシアが爆撃したら世界核戦争になりかねないから。コロナ疫禍とて黒死病に見られたやうな人口半減するやうな脅威的な流行にはならず社会がリセットされたわけでもない。革命も失敗がすでに結論づけられてゐる。結局のところ、こんな暴力的な社会変革も期待できない……ならなぜこの本を読まないといけないのか、とすら思ふ。

出現しつゝある格差を社会制度によって平等化することはできたはず。物的資源と労働の成果をバランスよく分配し直すべく介入すれば良い。ところが現実には社会の発展に伴って、その反対の結果が生じることが多い。

不平等は至るところで徐々に高まっており、その流れが現状を覆そうとしている。現在の所得と富の配分を安定化するのがますます難しくなるとすれば、より公平な分配を目指す取り組みはどんなものであれ、必然的にさらに大きな障害にぶつかる。

結局もはや暴力にすら何も期待できない時代なのかしら。内容のわりに膨大な分析が多く読んでゐて疲れたのも事実。

物質的に不平等な状況が出現するには、われわれ全員が生き延びるのに必要な最低水準を超える資源が手に入るようになる必要がある。

これとか迷訳?だが(オリジナルは見てゐないが)

われわれ全員が生き延びるのに必要な最低水準、それを超える資源が手に入るようになったとき(つまり余剰が生まれたとき)物質的に不平等な状況が出現する。

こんなことマルクスでもうわかつてゐることだしね。