富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

観世寿夫『世阿弥を読む』

癸卯年閏二月廿七日。気温摂氏9.0/18.1度。曇。昨日の皐月賞的中🎯の余韻に浸らうと朝イチでスポーツ新聞(日刊スポーツ)買ひに近所のコンビニに出かけたら休刊日。本日、昼より母方の叔父の葬儀。家人と自動車で常陸大宮に向かふが斎場は旧御前山村に近い。途中、雨。この叔父は真面目な人で叔母との婚姻後、うちの父母をお兄さん、お姉さんと慕つてくれアタシが香港にずつと旅居の間も父母のいろ/\をサポートしてくれ、ご恩ばかり。先月20日、お彼岸の頃に叔父から電話があり疾病で再度の入院だが、これまで通院などお世話になつた、と礼をいはれ治療の詳細を聞かされ退院したら、また通院などお世話になるかもしれないが面倒かけるがよろしく、と元気な声でそれが最後の会話にならうとは。従弟の話では癌の治療は続いてゐたが死因は心不全だつた由。葬儀が正午からで、そのあと斎場での火葬の間にお昼が供され精進で油揚げ、里芋、さつま揚げ、蒟蒻や大根、人参の煮付けと白い御強のごはん。昔ながらのお弔ひの、この供食に何だかほっとする。火葬のあと空は雲一つなく晴れてゐた。

観世寿夫 世阿弥を読む (平凡社ライブラリー)

観世寿夫『世阿弥を読む』読了。松岡正剛〈千夜千冊〉はこの世でも屈指の読書記録だが、その中でもこの『世阿弥を読む』の回の筆致は格別(こちら)。これを読んでしまふとアタシがあれこれ感想など綴る術もない。

能には(略)極めて単純ではありますが、一曲の筋書きがあります。しかしそのストーリー自体は単にその曲に入って行く為の手掛かりに過ぎないので、曲の進展にしたがって表面的は筋書きはどうでもよくなって、シテの人物にしても、それが芭蕉の精であろうと、式子内親王であろうと、たいした問題ではないといったものになってしまう事が多いのです。そして単純な笛の音、大小の鼓のカケ声やリズム、それに伴った意味のない動き、これらの音と動きの流れに添って謡われる歌、それは歌というより、むしろ一種の呪術的な祈りのことばに近いものとなるのです。この状態においては、もはや歌詞の意味はたいした問題にはならなくなってしまうのです。
世阿弥が彼の伝書の中で再三述べている、舞歌の二極を中心とした考え方も、ことばという具体的なもの――それは限定された観念の伝達の手段ですーーにたよるより、音と動きといった、より抽象的なものによって、はるかに微妙で深遠な美しさを表出することを考えついたためだと思います。ですから能を演奏する技術は、筋書きに基づいた心理描写や感情移入によって、その役に成るということとは異なったものなのです。東洋的な現わし方をすれば、「無」になるということかもしれません。それは意識的なドラマの世界から飛躍して、音と動きの中に身をゆだねることにほからないのです。

ドラマの超越。その年齢に応じた花を咲かせること。初心忘るべからず(若いころの芸の未熟さ)。

お能が古今独歩と思うのは、戯曲にに必要な心理というものだけを能は目指してない。戯曲のなかに瞬間的に、ぜんぜん不必要なイメージが突然出てくる。そうすると、それが劇を発展させていって、そのイメージの飛躍が、新たな緊張をつかんで、またべつのイメージにぶつかって、また新たに発展していく。ああいうスタイルはどこにもないのではないか。それは一種の観念連合の文体であるからこそできるので、論理的にもっていった文体なら、ああいうふうにはならない。お能の舞などというアクションは、ああいう文体で、ずいぶん不思議な飛躍をしている。しかし、そうして舞が意味がないように見えて、観客の精神にいつも寄りそってくるのが言葉である。観客のなかで飛躍してアクションも飛躍して、劇がそのイメージよってつながれていく。そういう点が実に独特だと思うのです。そういうスタイルがお能のスタイルで、もちろん戯曲としてのスタイルですが、ただ綴れ錦ということでなく、深い意味がある。……日本語としての響きのよい言葉で、意味もかまわず寄せ集めだから、意味ばかり重要視する近代的文章とは別に、いつも動いている言葉の機能というものができた。意味を追うか、イメージを連続させるかという二律背反にぶつかって、お能は意味を極度に排除して、言葉の音楽的機能とか、象徴的機能とか、そういうものばかりを極度に発展させている。(三島由紀夫

この本の中でも「能の伝統と継承──能役者の立場から──」(三笠書房『現代の演劇2』1966年に所収)が白眉。

能は絵画や彫刻と異なって、人間から人間へとからだを通じて伝えられるものであるから、ただ形式のみが伝えられても何の価値もないのである。あくまで演者の芸なり、技術なり、またそれらを支えている精神によって伝えられていかなければならない。そしてその演者は現代に生きているもであるから、現代の舞台芸術として、観客に訴えかけ得るものでなければならないのだ。すべからく能は、世阿弥が創り出した当時の、生き生きした生命力を取り戻すことが必要であって、古典の正しい継承はもちろん、新しい作品や、新しい演出による演能なども、当然考えられるべきだと思う。能はそうした広い観点から見直されれば、現代の舞台芸術として生きてゆく力を充分に持っており、また今後の演劇の創造に、何がしかの力を貸し得ると考えられる。こうしたところに、現代演劇における能の役割を感じるのである。