富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

新嘗祭


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(大公報)「愛国者」を選ぶといふことが選挙の前提となつてゐることは、つまり茶番であつて健全な選挙ではないのだが林鄭もこれほど中共政治の奴隷になれやうとは。
(明報)来年の小学一年の「自行派位」(公立学校で自分の選択で選べる枠)の申請がこの10年で最低。海外への移民の影響や直資(政府の援助受けない、カリキュラム上も制約の小さい私立校)志望者増の影響がどこまであるのか(判断材料が揃つてゐるわけではないが)いずれにせよ香港の公立学校教育は中共色強まつてゐる。
香港の医療従事者続々海外へ 医師660人・看護師3千人不足の指摘:朝日新聞
この香港の医療従事者不足もあつて香港の地力が徐々に失われてゆく。

天才と名人 中村勘三郎と坂東三津五郎 (文春新書)

天才と名人 中村勘三郎と坂東三津五郎 (文春新書)

長谷部浩さんによる勘三郎三津五郎の他では知ることのできないエピソードが散りばめられた評伝。この還暦を前に惜しまれつゝこの世を去つた二人が最初に一緒に立つた舞台は昭和38年の歌舞伎座、七月納涼の昼の部大喜利として七、八歳の子役ばかりの〈白浪五人男〉で、これの発案は勘九郎君。本人が弁天小僧かといへば南郷力丸役で弁天小僧菊之助が八十助、日本駄衛門に廣松(現・雀右衛門Ⅴ)、忠信利平が後の歌昇(今の又五郎Ⅲ)で赤星が梅枝(現・時蔵Ⅴ)で好評博し千穐楽では捕手に子どもたちの父ら幹部役者が出て拍手喝采だつたといふ。その後、勘九郎君は昭和44年に父・勘三郎との連獅子など話題となつたが父の勘三郎XVIIは幸四郎Ⅷ、松緑Ⅱ、梅幸Ⅶらと同じ世代でも勘九郎勘三郎晩年の子だつただけに染五郎吉右衛門辰之助菊五郎が倅世代に揃つたため勘九郎や八十助にはなか/\役がつかず若いときに苦労もしてゐる。その二人が平成2年の歌舞伎座の納涼歌舞伎(八月)で共演して夏に客を呼び〈団子売〉がどれだけ話題になつたか。これは昭和27年に七代目三津五郎(八十助の曽祖父)と勘三郎も踊つてゐたもの。その後、平成の歌舞伎でこの二人の活躍がどれほどのものだつたか。まさか平成24年、27年に二人が他界するとは。その間には團十郎XIIの死もあつたのだから歌舞伎座が新しくなるなかで本当に悲しみが続いた。