富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

五輪五輪まであと6日


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国安法施行1周年のおざなりな記念検討会。愛国者納港の徹底。愛国者とは愛党であつて中共を支持せぬものは非愛国者となり香港の政治に関与できないばかりか排除される。今更「たられば」だが基本法23条立法さへしてゐれば今日の最悪な状況に至らなかつたのか。「反対」は実は賛成の裏返しでリスクも多く賛成のふりをしつゝ順応しない非積極主義ことが賢明なのかもしれない。NHKの朝ドラ再放送で〈あぐり〉を見てゐるが昭和10年無政府主義系の作家が弾圧を受けるなかカフェセラヴィのママ・世津子(草笛光子)も官憲から逃れるため上海に渡ることに。当時の日本に今の香港が重なる。それにしても世津子がエイスケ(野村萬斎)と燐太郎(野村宏伸)にコトの次第を吐露するのに待合で二人が芸者・鈴音を呼んでの座敷で世津子が次の間から障子のかげで話すのは有名なシーンだが「官憲の目を恐れて」にしても、ちとやりすぎ?


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家人がよく出向く超級市場の軒下にツバメの巣があつて他の巣はもうヒナも巣立つてゐるといふのに、この巣だけはもうずいぶんと大きくなつたヒナがまだ四羽、両親に甘えてゐるといふので、それを見に超級市場に寄る。ほんと、もう自分で飛べるだらう、巣立たないの?と不思議なくらゐ。この四羽にエサを与へる親ツバメの番ひも大変だ、こりゃ。


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笠間へ。水戸から笠間に向かふときは国道50号線を避け今日は山間の県道113号線で夏のドライブ。京都のやうな盆地の笠間は猛暑。笠間の県立陶芸美術館で今日から「土イジり」といふ多少夏休み向けの企画展始まり家人と参観。陶芸のさまざまな手法につきかなり本格的な解説と展示で期待よりも面白い。入館してすぐに館内放送で「たゞいま当館の参観者が150万人目に達し」とアナウンスあり。この「土イジり」は今日からで初日の開館直後にしては閑散としてゐると思つてゐたがアタシらから数人目の家族が150万人目でお祝ひ。かまど炊き?とかの電子炊飯ジャーが商品ださう。笠間焼でさすがに板谷波山の作品とまではいはないが笠間焼でもIH対応のご飯を炊く土鍋とかあるやうで、せめてそれくらゐにすればよいのに……といふのは150万人目逃したアタシのグチ。

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朋ちゃんの作品も展示あり。彼女は元々美術系の人だが陶芸は1992年に香港で陶芸教室に通ひ始め、最初は彼女のマンションに招かれご自身のお皿で料理を供されたり、それが10年過ぎて本格的な陶芸の制作に入り常滑にも住んで今ではもう著名な陶芸作家になつてしまつた。


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お蕎麦の「柊」で早めのお昼。ご亭主がとなりの畑でインゲンを摘んできて、それが天ぷらに。天ぷらがじつに美味しいけどたくさん盛られるので2人でせいろと天せいろをとつて天ぷらは半分ずつ。11時半くらいにはもう満席。陶芸美術館正門に近い「さかさ川」といふ陶器店が茶器や茶道具も置いてゐるやうで伺ひ床の間に掛け花入れを贖ふ。こちらでは茶道(裏千家)の教室もやられてゐるさう。


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日動美術館。 鴨居玲展-Camoyの生きざま(美術手帖より)参観。昭和60年鴨居逝去から早36年。日動では5年毎に大規模な鴨居の回顧展 -Camoyの生きざま-(明日まで)。初期のまだ二十代の自画像と絶筆となつた57歳のまるで絶望の淵の死骸のやうな自画像。鴨居玲といふ画家の生涯そのまゝのやうな圧倒的な展示に1枚1枚くたくたになるまで対峙する。参観してゐた老夫婦が「こんな絵を描いてゐたら、もう死ぬしかない、死が迫つてゐる」とぽつり。その通りだ。もうアトがないほど追い込まれたところで鴨居は描き続けてゐた。鴨居玲といふと銀座の日動画廊で評価高まり、その初回の個展が昭和48年と思つてゐたが鴨居と日動との縁は鴨居の姉の羊子が画家目指す弟(玲)のことを心配して友人の司馬遼太郎に相談。司馬は産経新聞(大阪)文芸部出身なので司馬が大阪の日動画廊を紹介した由。昭和44年で鴨居は41歳。アタシが初めて鴨居玲の絵画に接したのは、この笠間日動美術館で、まだ鴨居の生前だつたのか急逝の直後だつたのか。この美術館が改築される前のまだ小さな洋館だつたころ。それ以来、この笠間日動画廊鴨居玲の作品に再会のため訪れる。

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ドナルド=キーンによる鴨居回想「白いキャンヴァスとの再会」

鴨居玲といふと暗いキャンバス、悲壮感漂ふ作品の印象が強いが田中千代のための絵付け皿(左下)のデザインなんて本当に明るくて洗練されたモダニズム。広い鴨居玲展の会場のところどころに、参観者の気持ちを少し和らげるやうに、プロムナード的に日動所蔵の彫塑像とかが置かれてゐる。雑な配置のやうで背後の黒布に映る塑像の影をかなり意識してゐたり(右下)。


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笠間は茨城の小京都だなんていはれもするが、この美術館の竹林や丘の上からの市街の眺望など本当に京都のやう。

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佐白山のとうふ屋に寄りもめん豆腐とお揚げを贖ひ豆乳のアイスクリームを頬張る。水府に戻り近所の花屋にゆくと先ほど鴨居玲の作品にあつたやうな赤色のきれいなアルストロメリアがあつた。それと桔梗。


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照ノ富士と白鳳それぞれの十四連勝を見とゞけながら花をいける。

白鵬 横綱相撲とつて! 対正代戦、あれ何? 小兵力士なら許されるけど炎鵬に倣つたか。勝てば良いのは横綱ぢゃない あれぢゃ晋三の長期政権と一緒だよ、まったく!

八角理事長(元横綱北勝海)も「奇襲は弱い方がやること。これだけ優勝してゐる横綱があゝいふことをしてはいけない」と苦言を呈す。

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菊正宗より届いた納涼日本酒セット

パサージュ論 (四) (岩波文庫 赤 463-6)

第1巻を通読しただけのヴァルター=ベンヤミンパサージュ論』(岩波文庫)で次は第4巻だけつまみ読み。この巻のインデクスが「サン=シモン」「鉄道」「フーリエ」と「マルクス」とかで他よりも一寸興味があるもの。市立図書館で借書したのだが2003年の初版で借り受けたのは今回のアタシが初めてだつたみたい。ベンヤミンの記述(ノート)はテキストの面白さではロラン=バルトのやう。かなり分析は見事だが「鉄道が歴史上に残した刻印は、それが最初の―そして外洋航路に使われた大きな蒸気船を除いてはおそらく最終的な―大衆をまとめて運ぶ交通機関であるということである。郵便馬車も、自動車も、飛行機も小さなグループの旅行者を運ぶにすぎない」なんて「予言」は外れても愉快。でも「おそらく」としたのだから賢明(飛行機があんなに大きくなるとは思ひもしないだらう)。

サン=シモンとマルクスの間にある注目すべき相違点。サン=シモンは搾取される者の数を可能なかぎり多く算定している上に、ここに企業家も含めている。なぜなら企業家も融資者に対して利子を払うからだという。これとは逆にマルクスは、たとえ搾取の犠牲になってはいても、なんらかの形で搾取をしている者をすべてブルジョワに数えている。

(自己疎外について)労働者は資本を生産する。資本は労働者を生産する。したがって労働者は、彼にとって疎遠な資本のために存在するときにのみ自分自身を、そして…彼の人間としての所属性を生産するのである。…労働者は、自分が自分に対して資本として存在するときのみ、労働者として存在するようになるのである。そして彼は、資本が彼に対して存在するときにのみ、資本として存在するようになるのである。資本の存在がの存在であり…資本が彼の生活の内容を彼に無関係なやり方で決定する。…生産が生み出すのは、…非人間化された本質としての…人間である。(カール=マルクス

「芸術の自律性の起源は、労働の隠蔽にある」と断じた、この▼の記述。

ヴァーグナーについて)ヴァーグナー管弦楽技法は…美的な形姿から〔より適切にいえば音の美的形姿から]音が直接的に作り出す部分を追放してしまった。…なぜハイドンが弱奏のときヴァイオリンにフルートをかぶせるのかをはっきり理解する者がもしもいるとすれば、その人間はおそらく、なぜ人類が何千年も前に生の穀物を食べるのをやめてパンを焼いたとか、なぜ人類は自分の道具をピカピカに磨き上げるのかを知るための手引きを手にいれられるのだろう。消費物においてはその生産の痕跡は忘れられるべきものなのである。交換する人間は消費物を作ったのではなくその物の中に含まれる労働を領有したのだということを露わにせぬために、消費物には、そもそもがもはや作られたものではないかのごとき外観をもたせねばならないからである。芸術の自律性の起源は、労働の隠蔽にある。