富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

東京五輪まであと9日

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区議会議員宣誓の徹底につき意気揚々と語るリンテイ。香港政府の英才はもはや化け物になつてしまつた。逆権運動については強硬強圧といふ批難にも法に基づく厳正な対応が求められると姿勢を変へぬリンテイが政府。それで71警官傷害で自害した抗議者讃へた香港大学自治会処分は徹底。それに対して保安局に属する上層役人の中共企業会食については行為に不適切な部分はあつたとするだけで処分見送る。前者は学生の言論活動、後者は公務員の贈収賄か?の行動。常識的に考へればどちらを厳正に処罰すべきかは明白。この2つの事象に対する措置が全く公平でないのだが化け物はもう冷静にそれを判断することはできない。

鄧炳強:無獲邀出席飯局 3高官已承受法例代價名聲受損 - 明報

保安局長の鄧某(元警察トップ)もすでに本人たちは名誉受損で代償を払つた、とこれ以上の処罰等せず。

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日本政府を見てゐてもスガの経済再生大臣・西村某庇護など同じといへば同じ。

スガが西村発言で陳謝、事務方から説明受けるも「具体的な内容は議論していない」:東京新聞

西村某は会見で金融機関などへの要請につきスガも出席した関係閣僚による会合で「事務方が説明していた」とするがスガは「要請の具体的内容を議論したことはない」と釈明。その上で「判断が正しかったかどうか」には「具体的な要請の議論はしていないので、そこは承知しておりません」。

あまりに身内を守るだけの権力ばかりで公儀は何処へ。

説き語り日本書史 (新潮選書)

石川九楊『 説き語り日本書史』(新潮新書)読む。アタシたちは「日本語は漢語と倭語から成る」ものであつて、先づ倭語ありきで倭語は無文字だつたところに大陸から漢字がもたらされ倭語の音に当てた万葉仮名を用ゐて、そこから仮名が生まれ今日の日本文に至る……と思つてゐる。しかし九楊先生は日本の言葉の歴史はそんな生易しいものではなく倭語の世界に文字と文明をもつた高水準の中国語が流入して前日本諸語は大きな変質に曝されて中国語がのしかゝるやうに言葉が整理、変形されて、そして新生和語としての日本語が生まれた……とする。確かに中国からの中国語文字の流入で前日本諸語は負けて消滅してもおかしくないのに、それが生き延びたといふことは、とんでもないサバイバルがないはずがない。それでもかなりの譲歩が必要だつたわけで、そこで和語はかなり重要な場を漢語に譲る。例へば「わたしは文字を書く」といふ文を見たときアタシたちは「わたし」は和語で「文字」は漢語、そして「書く」は和語といふやうに日本語は倭語と漢語の複合体と見るのだが、じつは「わたし(私)」は漢語で「文字」ばかりか「書く」も漢語。諸橋文法的に見れば「私」「文字」と「書」といふ漢語の〈詞〉に「は、を、く」といふ和語の〈辞〉がつなぐ二重構造が日本語であつて実は〈詞〉だけで意味は通じるのは中国語ばかりか手話!もさう。そんな冷酷なほどの文字の「調和しあへない調和」(とでもいへばよいのか)のなかに日本のことばがあるといふ緊張感を考へなければならない。書法の歴史もまずは「中国文字の擬似」があつて七世紀に聖徳太子法華義疏」、聖武天皇光明皇后の頃。そのあと「中国への違和感」から「中国書史の本流では見られないおかしな雑書体」(九楊)が書かれるやうになる。空海嵯峨天皇橘逸勢に代表される三筆がそれ。そして三蹟の小野道理、藤原佐理藤原行成になると中国の書法とは異なる、もはや日本の書になるといふ日本書史。

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橘逸勢「伊都内親王願文」(左)と藤原俊成「日野切」

かうした時代を経て平安のかなの書法の全盛を迎へ「絵画的な構成法」すら確立するのだが、それは四季の移り変はりや恋愛、心情などの詩歌、物語に限られるわけで、それは政治語や思想語が貧弱であるといふ日本語の致命的な特性になるわけで、それが今日まで続いてゐることを九楊先生は指摘する。さういはれるとスガの政治的言説の乏しさまでも、その流れにあるのか……とほゝ。では平安末期で日本の書法はすでに出来上がつたかといふと、そこに「宋の書の亡命」がある。元の登場によつて中国の体制や文化の一つの完成形である宋の文人や禅の僧侶らが日本に逃げてくる。そこで再び漢語の強烈な流入があるのだが大和朝廷の黎明期とは違ひ日本にはもはや日本の文字空間が存在したので、この時に入つてきた漢語の文字たちは日本語の中における漢語的書空間で確固たる立ち位置に収まることに能ひ<唐様>となり、和様の日本文字と中国文字の複合の完成に至る、と。 

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副島種臣「春日其四句」

そのあとの時代についても書史は続くのだが明治に入ると、この種臣卿の書ともなると、もはや「クレーやミロの絵画を思わせる」(九楊)近代ぶり。そして中村不折らとなるのだが本来ならこの最期に石川九楊といふ現代の最も優れた書家に至るのだが九楊先生ご本人の著述なのでご自身については語らず。それにしても面白く通読できた一冊。これは九楊先生の『説き語り中国書史』に続けて読んだもので『中国書史』については先週の日剩(こちら)に感想残しておいたが書き忘れたことが一つ。中国書史については近代について触れられておらず、やはり近代中国の知性としての郭沫若と知性もなにも風雲の如しで毛沢東の書法についてはぜひ九楊先生の見立てを読みたいものだつた。九楊先生が毛沢東の書について言及してゐないはずがない、と思つて探してみると『書の宇宙』22号で「世界を軽んず―毛沢東における狂草、そして楚辞」あり。タイトルだけでも身ふるひする。