富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

東京五輪まであと17日


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「黒暴乱港 唯有法弁」と大公報は暴徒らによる香港の混乱はたゞ法律で対処すべき、と訴へるのは23条立法のこと(明報)。国安法制定しても更に23条立法は必要。それなら2003年に50万人デモで23条立法廃案などにせずマカオのやうに、この立法受け入れておいた方が良かつたのか、今となつてみれば逃亡犯条例の方がまだマシで、それで23条立法は焦らすのも得策だつたのか。リンテイ市長は逃亡犯条例持ち出したときに、どこまでのことを考へてゐたのか。(陰謀論になつてしまふが)実はすべてが今日の状況を到達点として描いたシナリオがあつたとしたら……2014年の雨傘のときに、こんな風土を何う平定するか、で。この作戦は結果的に成功したが間違いなく「やりすぎ」感あり。いずれの立場でもさうだが、ある程度の成果/損失のところで「こゝまで」で停止、相手に対する譲歩が肝心。日露戦争くらゐまではそれができていたわけだが。

米IT大手が香港でのデータ保護法改正巡りサービス停止警告  - WSJ これはまだ警告レベルとはいへ抗議活動、反政府言論、新聞などメディアなどで国安法による規制強化で、つぎは何う考へてもネットだらう。蘋果日報が消滅しても社会を混乱に陥れる言論が放置されてゐては中共にとつては厄そのもの。国内では見事に反政府的コメントなど管制できてゐるわけで香港でも管制強化にはデータ保護法改正が必要。ネットが自由に世界とつながつてゐることが中共と香港の大きな違ひで一国両制の象徴のやうな感覚だつたが内地のやうにGoogleFacebookもつながらないとなつたら、香港はもう香港でなくなる、といひたいところだが現実的にはもう陥落してゐるか。中共WSJのこの報道に対して早速、これをガセネタと非難(翌7日の大公報)。

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笹まくら (講談社文庫)

丸谷才一笹まくら』(講談社文庫)読了。小説苦手なアタシがなぜ丸谷先生のこれを読んだのか、確か何かの書評で戦前の荷風散人の世界を踏襲してゐるのが、だつたか小説としての完成度の高さだつたか、何かほめられてゐた。丸谷先生の小説は昔、『裏声で歌へ君が代』と『女ざかり』と読んではみたものの……やはりよくわからなかつたのが正直なところ。

 これもまたかりそめ臥しのさゝ枕

 一夜の夢の契りばかりに 藤原俊成女

戦争が終はつても主人公が楽しくないのはいつ特高に捕まるかといふ不安と自分だけが逃れたといふ罪悪感からであり、これは漱石の気持ちと重なる……と川本三郎。この小説が昭和41年に刊行されたときの作者自身の言葉。

徴兵令が布かれてから敗戦の日までの長い歳月のあいだ、日本の青年たちの夢みるもっともロマンチックな英雄は、徴兵忌避者であった。彼らはみな、この孤独な英雄の、叛逆と自由と遁走に憧れながら、しかし、じつに従順に、あの、黄いろい制服を着たのである。そう、ぼく自身もまた。……ぼくの長篇小説『笹まくら』700枚は、そのようなかつてのぼくの従順さに対する錯綜した復讐となるであろう。

丸谷先生の文章が旧かなではないのが何とも不思議。この小説の中でも主人公が電報を打つときに旧かなであつたことで郵便局員にチェッと舌打ちされる場面があつた。

説き語り中国書史 (新潮選書)

石川九楊説き語り中国書史』(新潮選書)も読む、といふか専門的すぎて眺める。字画文字として誕生した篆書体は、文字を構成するための字画を集めてなりたつ文字なのに対して隷書体は「書く」姿を文字のなかに投影した初めての字画文字。筆尖と紙(対象)との接触と摩擦によつて対象の存在を感知し筆毫の開閉によつて対象の質の違ひを認識することにより、主体–客体関係を成立させるのが書法。その主体と客体の関係を簡(対象)に墨跡として定着させること、それが「書く」といふことの成立を象徴するのが隷書である、と九楊先生。

「書く」ことの成立により、文字は単なる観念的な象徴的な表装ではなくなりました。右手に筆をもち「トン」と抑えると、左上から右下へむかう起筆が生じます。そこから横画を書こうとすると、筆触は最大抵抗を求めて直角に進もうとし、おのずと右上がりとなります。書字の際の書き手の身体性まで規範に含みこんで、横画右上がりの草書体、さらには行書体が生まれていきます。文字は、身体をそなえた人間の書くという行動・動作の過程(プロセス)さえも表現するものになったのです。書字の身体性の発見といってもいいでしょう。

いつも自分なりの字が書きたいと思ふ。メモ書き一つとつても祖父の残したものなど実に味はひがあつて少しでもそれを習得したいものと思ふのだが。それにして「書く」といふ行為を、さすが九楊先生ともなると、こゝまできちんと分析できるとは……敬服。