富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

2018年 年の瀬

農暦十一月廿五日。厳寒続く。香港では普通に十二月末の平日。ほんの少しだけ掃除。毎年、この陽暦大晦りにするのは線香の灰振るひ。


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浴室の換気扇の掃除。浴室の巴水の年暦(銀座渡邊版画店製)掛けかへ。午後やつと巫鴻(Wu Hung)の大著『北京をつくりなおす 政治空間としての天安門広場』読了。夕方、ジムに行き北角まで歩き洪記食品店でウオツカ一瓶購入して帰宅。北風が厳しい。自宅のウオツカ切らすとBloody Maryが飲めない。日本のテレビではテレ東では懐かしのメロディー、日テレなどお笑ひSP、格闘技物そしてNHKの紅白。いずれもどーでもいゝがEテレでは年末だから貝多芬第9なのかと思つたら片山杜秀先生ゲストに宮本亜門司会で今年の、そして無理やりだが平成のクラシック音楽振り返る番組。今年4月のブロムシュテット指でN響のピレシュさまで貝多芬のP4番(第4楽章)等流してゐて、この番組だけ見る。杜秀先生の言葉の過剰と亜門の薄っぺらな感動。京都B氏からお土産に頂いた南座は松葉のにしん蕎麦があつたので、これを年越し蕎麦に啜る。常陸は山形宿・根本酒造の戌年の祝ひ酒もあつて、さすがに今日が賞味期限で終ひ酒。


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紅白がサザンの勝手にシンドバッドで終わるころ、香港はまだ午後11時だが新年迎へる前に寝てしまふ。半夜三更にヴィクトリア湾の船が一斉に汽笛鳴らしたのも半ば白川夜船。
▼ 巫鴻(Wu Hung)著『北京をつくりなおす 政治空間としての天安門広場』について。読書感綴るにも何とも名著。北京で知識人家庭に生まれた著者が文化大革命を経て北京の中央美術院で美術評論学び北京の中枢で育つた彼が天安門広場を中心とする北京の都市構造を歴史的に、政治的に見事に分析してみせる。それも「視覚によつて得られる直感」が加はり、それを言葉によつて分析し見事に理論的に組み立て〈北京〉といふ都市の〈政治装置〉としての在り方を見せつけられる。客観的に分析された都市と、そこに生まれ育つた著者の回顧を重奏的に織り込むことで更にこの〈北京〉が現実の物語となる。我々は天安門広場を知つてゐるが、ここは中共による〈解放〉前までは紫禁城前の狭い門前であつた。此処から前門までは当時は賑はひ、孫文袁世凱も、そして日本軍による入城もこゝを舞台にしたわけだが我々の知る天安門前広場は中共入城により天安門前の数多の建物を取り壊し巨大な人工の広場を設け今の姿となる。この広場あつてこそ人民をそこに集めることで1949.10.1の、あの毛澤東による天安門楼上からの「中華人民站起来了」の宣言。*この実際の建国宣言の様子が「開国大典」の革命絵画では見事に楼上の幹部らの位置が変はつてゐる上に天安門天安門広場の位置も現実にはありえない、楼上の毛澤東と広場の人民を一映しにするため無理に高さが同じような無理がなされてゐる。


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そして広場の周囲に西に現政権の人民大会堂、東に同じく現政権の歴史博物館の巨大な権威的な建物を配し広場は、かつて帝国が紫禁城の内にあつたものを毛澤東の肖像が掲げられた天安門に象徴される、この広場に移した(但し実際の政治は故宮の西に位置する〈中南海〉の中で捗られてゐる)。それだけでも完成してゐる広場だが、その中央に人民英雄記念碑を誰も否定できない象徴として据へた。すべてを南から眺めるのなら、この記念碑の正面も南に向くところだが記念碑の正面は北で、この人民英雄たちは天安門の毛澤東と向かひ合ふ。更に毛澤東が亡くなると毛澤東の遺体据へた毛澤東記念堂が広場の西側に設けられ記念堂の中の毛澤東は南から人民英雄記念碑と天安門を見守ることになる。この記念堂の完成で天安門広場は閉じた空間となる(完成)。

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……と書いたところで、かういふ見立てはこの大著で語られる内容のほんの一部。この著作はさらに北京や中国の政治などに関心がなくても抽象的な物事をどう言語化するか、どう意味づけするかといふ、とくに記号論に関心があれば見事なテクスト。そこにさういふ理論とは真逆の著者自身による半生記のやうな物語が織り込まれてゐる。その中でも第5章「広場のアートーー主題から広場へ」にある中央美術学院を襲つた文革についての記述が生々しい。著者自身も高名な経済学者の父、シェイクスピア文学研究の母をもち文革では知識人階級として批判されるのだが中央美術学院では毛澤東の天安門に掲げられた肖像画描いた周令釗、中共建国の「開国大典」描いた董希文、そして人民英雄記念碑上のレリーフ彫刻デザインした劉開渠の三人、つまり中共建国で最も功績ある美術家がどのような仕打ちを受けたか、が伝聞ではなく間近にやはり幽閉されてゐた巫鴻自身の言葉として綴られてゐる(これは圧巻)。この著作で、これらの革命絵画はテクストとして見事に分析されるが、もう一枚「天安門前」といふ社会主義リアリズムの現代絵画として秀逸なる作品描いた孫滋渓は出自背景が革命階級といふことで紅衛兵の攻撃に遭うことがなかつたといふ。

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書くと長くなるが空間の支配とならんで〈時間の支配〉も権力にとつては重要で北京の故宮の北に位置する鼓楼と鐘楼の意義から北京の時間支配を分析してみせた第4章「時のモニュメント性」で北京の話から天安門広場に据へられた香港時計(1977.7.1の香港回帰までの秒刻みのカウント時計)に著者が着目し、そこから見事な香港論を展開してゐることも白眉。香港返還は1984年の中英合意から考へるところだが、この時計が天安門前広場に現れ時を数え出したのは1994年の6月30日。中英合意から10年、返還まで3年の、なぜこの日に時計が公開されたのか。この時期は香港で末代総督となるパッテンにより香港の急激な政治改革、民主化が進んだ時期で民主派が多数占める香港立法局が可決したパッテン提案の発効がこの日。このパッテン改革を全面的に非難した北京中央は、まさにこの発効日に合わせ、この時計をスタートさせ香港は中国に否応なく従属することを明らかにした、と。最後に、この著作につき原著“Remaking Beijing”は未読だが訳者によれば和訳に当たり本著が参考、引用にする多くの文献について本著に比べ大幅に注釈を加へ、さらに原著では膨大な挿図がサイズや形式で上手く配置できてゐなかつたものを和訳本ではかなり文章に的確にレイアウトできてゐるといふ。さういふ意味で名著が和訳で原著を超えるテクストとなつてゐるこことも出版史に残る一冊といつても過言ではなからう。

北京をつくりなおす: 政治空間としての天安門広場
 

▼ところで「五更」について。あたしは荷風先生に倣ひ日剩でも二更、半夜三更、痛飲深更に至る……なんて書き方をするが、これは

一夜を初更(甲夜)・二更(乙夜 (いつや) )・三更(丙夜)・四更(丁夜)・五更(戊夜 (ぼや) )に五等分した称。

に基づくもので午後7時起点とすると半夜三更が深夜零時に当たる。これについて上述の著作で巫鴻先生が違ふ刻み方を書いてゐるのが興味深い。

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