富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

fookpaktsuen2016-09-18

農暦八月十八日。日曜朝はいつもならNHK第1で皆川達夫の〈音楽の泉〉だがNHKプレミアムで中井精也のてつたび!スペシャルで台湾一周を見る。松山空港に到着して、そのまま台北車站から東回りで鉄道の旅始まるはずが台風の余波で運休。翌日は晴れて平渓線、池上弁当で、その日のうちに高雄、台南は通り過ぎて嘉義。翌朝は未明に阿里山鉄道でご来光拝み海線で鉄道遺跡を歩き晩に台北へ。2泊3日の取材で初日が取材できず、かなり端折った模様。それにしても中井精也のカメラを前に鉄道で出会ふ人たちの笑顔がきれい。快晴。三連休たうとう三日とも休めず。今日は官邸で古い半世紀前からの資料整理。もう20年以上使つてゐたコーヒーメーカーのガラスのサーバーが劣化、古い形でもう買ひ替へも能わず電熱部分も漏電心配で帰宅途中に太古の岡田屋に寄ると象印のコーヒーメーカー(中国製)がHK$299で売られてゐる。これでいつたいいくら儲かるのかしら。昭和の昔、アタシが子どもだつた頃も5、6千円した記憶。自家製コロッケを肴にキクマサ。洋食系のコロッケとかとんかつとかに日本酒が合ふ(当然、大吟醸とかダメだが)。今晩のお茶受けは熊本は菊池の西観寺丸宝の松風でほうじ茶。
▼慎太郎、コンクリ検討指示認め発言を修正。騙された→取り次いだだけ→指示した……男に二言はなくないのか、慎太郎よ。次は「恥ずかしながら僕は老人性痴呆が始まっててね、記憶が曖昧なんだ」だらう、言ひ逃れは。慎太郎も醜悪だが選んだのは都民。毎日新聞で岡田憲治著『デモクラシーは、仁義である』の藻谷浩介による評(こちら)より。

「どうせダメだと放置していると、民主主義はどんどん形骸化して、もっとひどいことになりますよ」と書いてある。では何をすればいいのか。
まずは理解を改めること。著者は民主主義を、見識、意見、経験の有無を問わずあらゆる個人に対して平等に、政治に物申す権利を保障することだと定義する。そしてこれは、最良の選択をするためではなく、最悪の選択をなんとか回避するための制度だと明言する。
民主主義の質を高めるのは見識をもって「物申す」行動であり、低めるのは言語を用いない「忖度」だと著者は語る。確かに築地市場の移転先の豊洲の建物の下に発見された空洞は、忖度の横行による議論の空洞化を象徴するものだろう。移転決定当時の知事だった石原慎太郎氏は「私は騙されていた」と発言したが、この無責任老人以上に断罪されるべきは、官僚に騙されるトップを選んで放置した都民の、物申す意識の不足なのだ。

朝日新聞の長谷部&杉田の(考論)は朝日で長く皇室報道してきた岩井克己を加へ天皇について(こちら)。

(杉田)興味深いのは、天皇ご自身は地方を回って、直接国民と触れ合うことをとても大事に考え、国事行為を代行する摂政ではそのような活動はできない、だから生前退位を望んでおられるのだと私は理解しますが、保守を自認し、天皇制を大事という人たちのなかでは、退位に反対し、摂政をおけばいいという意見が強い。彼らは、天皇は地方を回ったり外国を訪問したりする必要はないという考えなのでしょうか。
(岩井)存在してくれるだけでいい、宮中の御簾の奥で祈って下さればいいという考えだと思います。実は私もこれまで、天皇の「ご活躍」には、そこまでやる必要があるのかと疑問を抱いていたのですが、今回、お気持ちを聞いて得心しました。遠隔の地や島々を旅することで、国内のどこにおいても、その地域を愛し、共同体を地道に支える市井の人々がいることを認識した、そのことが自らを力づけ、祈りに内実を与える。そういう捉え方をしておられたんだなと。
(杉田)新天皇の即位に合わせて元号を変える一世一元になったのも明治からです。天皇のありようは明治期に変化したわけですが、保守派とされる方々が、実は長い伝統によらず、明治から終戦までの一時的な天皇像に極度にこだわっているというねじれが生じています。
(岩井)確かに陛下はこれまで、帝国憲法時代の天皇をモデルにはできないということをかなりはっきりおっしゃっています。たとえば2009年、ご結婚満50年に際しての記者会見で、大日本帝国憲法下と日本国憲法下の天皇のあり方を比べれば、日本国憲法下の方が天皇の長い歴史で見た場合、伝統的な天皇のあり方に沿うものと思う、と述べられている。近代以前の天皇の伝統も踏まえて、日本国憲法下の象徴としてどうあるべきか、時代もにらみ合わせてやっていくしかないというお考えなのでしょう。ただ、日本国憲法にはアメリカンデモクラシー的な精神も入っているからなかなか大変で、憲法改正を主張する保守派の一部が、現天皇に微妙な感情を抱くのはそのためかもしれません。

朝日新聞の書評から原武史を引用(こちら)。

平成の象徴天皇制は昭和と全く同じというわけではない。河西秀哉『明仁天皇と戦後日本』は、現天皇が即位してから国民に対する接し方を大きく変えたことを指摘する。それを象徴するのが1991年7月、前年噴火した長崎県雲仙・普賢岳の被災者を見舞ったときの行動である。このとき天皇は、皇后とともに膝をつき、一人一人に目線を合わせて声をかけた。これ以降、各地で大きな災害が起きるたびに二人は被災地を訪れ、同様の行動をとるようになる。
それとともに、天皇に対する国民の印象も大きく変わる。一言でいえば「特に何とも感じていない」が減り、「尊敬の念をもっている」が増えたのだ。いまや大日本帝国憲法教育勅語もない。にもかかわらず、現天皇は在位28年にして、抽象的な「臣民」ではなく、顔の見える「市井の人々」の内面に届く形で「国体」をより強固なものにしたともいえるのである。