富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

fookpaktsuen2016-07-28

農暦六月廿五日。いくら何がなんでも夜中に目覚めたら2時はつらい。2時半くらゐに眠れず起きて朝の5時すぎに1時間ほど二度寝ほんとうに老人生活。老人といへば世界の平均寿命発表され香港が男女とも世界一の長寿。311のあと日本の平均寿命が一瞬下がって1年だけ女性で香港がトップになつたが、また日本を抜く。男性も香港がトップ。日本人男性は酒とタバコで少し低いのか。香港で、こんな生活条件の悪いのになぜ?と思ふが、空気も水も悪いなかで鍛へられるからか。いずれにせよ老人がよく街に繰り出してゐるのも長寿の一因か。それにしても新聞の朝刊を読むにも早すぎる。新聞といへば昔は新聞はキオスクやコンビニで床から平積みだつたもの。それが今ではフリーペーパーには朝から老人たち長蛇の列でも、有料紙はコンビニで一番売れ筋の蘋果日報、東方日報すら十数部しか仕入れてをらず。人気のない大公報など党紙は部数も少ない上に一番下段に置くとは、けしからん。
▼自転車で転倒して頸髄損傷で交代論強まる自民党の谷垣幹事長。麻布から東大法出の弁護士で宏池会のエリートながら民主党政権時代の自民党総裁で続投あきらめ晋三に譲り宏池会ながら晋三のファッショ政権支へる幹事長といふ立場。それでこの怪我で政治生命も終はりか。情けない。運も政治家には大切。この人の功績?といへば「加藤の乱」での加藤紘一慰留くらゐ。あれさへなくて加藤紘一が反乱起こしていれば「たられば」だが晋三の非立憲政治など現れたかしら。少なくても保守リベラルがこんな為体にはなつていまい。自民党といへば自主憲法制定を党是と信じてゐるが一橋大の中北浩爾教授(政治学)の「自主憲法制定は自民党の党是たりえるか」といふ指摘(こちら)より要旨。

確かに1955年の結党時には「現行憲法の自主的改正」は「綱領」の下の「政綱」の最後の一項目。憲法は票にならない。池田勇人の高度経済成長では自主憲法は棚上げ。宏池会河野洋平総裁のでの綱領的文書の一つ「新宣言」では「新しい時代にふさわしい憲法のあり方について、国民と共に論議を進めていきます」。後藤田は「リベラルとは新しい保守だ」と語り現行憲法の自主的改正を「復古主義」と斥ける。
晋三らの巻き返し。これはリベラル色強い民主党の台頭で、対抗上自主憲法の制定が自らのアイデンティティーの中核に。「自主憲法の制定」が不動の党是というのは一種の「創られた伝統」。憲法改正を目指すとしても現行憲法を肯定的に評価するのか、否定的に捉えるのかは党内でも異論あり。「野党第1党と合意できる憲法改正を目指すべき」は、民主党との差異化を図るあまり復古主義的な改憲案を作成してしまったことへの反省か。

重要なのは「党内の意見の多様性を大切にしつつ国民の声に応じて柔軟に変化してきた自民党の歴史を再認識すること」と中北教授。つまり晋三の自民党ではダメといふこと。
池澤夏樹氏の朝日新聞連載(終わりと始まり)で「難民問題を考える」(こちら)より。

今の日本で安楽に暮らして、アイドルやポケモンGOに熱中しているあなたは、自分がなんとしても国を出なければならない事態を想像できるか?ジャスミン革命は中近東の多くの国に波及し、たくさんの独裁者が倒れた。しかしその後に安定した政治体制が作られた国はほとんどない。では、どこまでも腐敗する独裁政権と各派が乱れて戦う内戦状態と、どちらがましなのか。英語でなら、betterではなくless worseを問うべき事態。しかもこのシリア的状況はISことイスラム国などを通じて世界中へ浸透している。乱世はすでに始まっている。

▼日経夕刊で読んだリービ英雄の随筆「新宿で買った原稿用紙」(こちら)より。日本の文人気質。

紀伊国屋を出て、歌舞伎町に向かおうとする。「日本の現代文学」の場所から、官能がうずまく無秩序の、「新宿」の最も新宿らしい領域にちょうど足を運びだしたところに、原稿用紙の売り場があった。
ニューヨークにも似た知性と自由、それにアジアの路地の混沌とした感性、その両方を奇蹟的に備えた新宿で、自分が体験した「現代」を、母語の英語ではなく日本の都市の言葉で、「おまえも書いてみたらどうか」と誘惑しているように、日本にしかない形の白紙がぼくの目に入った。
四百字詰の原稿用紙を二百枚、そこで買った。そして荷物に入れて、太平洋の上を飛んでいった。アメリカに入国した際、税関では見慣れない所持品について、「Japanese manuscript paper」と説明したところ、不思議な顔をされた。
新宿で買った原稿用紙をスタンフォード大学にもって帰った。カリフォルニアの太陽の下で黄ばんだ紙の、その縦の線にすこしずつ、断片的に、日本語の文章を書いた。
その文章がやがては「星条旗の聞こえない部屋」という小説になった。その小説が紀伊国屋のあの棚に現れたとき、ぼくにとっての一つの「新宿」が完成した。