富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

覚醒剤打たずにホームラン打とう

fookpaktsuen2016-02-05

農暦十二月廿七日。晴。まだ除夕=大晦日には日があるが週末金曜といふことで世の中は仕事納め。晩に自宅で鶏手羽水炊き。岩波新書で倉田徹先生の『香港』読む。世の中はTPPの署名締結よりも元野球選手の覚醒剤のほうに騒ぐ。本来ならTPPの功臣・甘利某新西蘭での署名式に晴れ晴れしく出るべきところ収賄で失脚、代はりに内閣府副大臣高嶋某出席で末席汚すべきところ場違ひの和服姿。新潟は十日町の出身ださうで「日本の文化の発信のため」新西蘭が夏なので夏物を地元より取り寄せた由。甘利退任で棚ぼたの署名式出席に「私1人に空港まで6台の白バイとパトカー、上空からヘリコプターが警護に付く厚遇でした」とブログに綴るほどの欣喜雀躍に呆れるばかり。で元野球選手の覚醒剤だが「野球選手は子どもたちのあこがれ」とか「スポーツ選手としての自覚」だとか大物野球選手が覚醒剤に溺れることで覚醒剤くらゐ大丈夫と思ふ若者が増えるとか……覚醒剤打つのも吸うのも個人の問題。芸能人、野球選手でも市井の民草でも一緒なのだが。清原さんに対して「野球バカじゃダメ、一人の人間として成長、教育していかないと」と中原清さま、アナタこそ野球バカです。子どもじゃないんだからプロ野球選手や芸能人に成長だとか教育という社会の気持ち悪さ。「寂しかったんやろうな」と江夏さん、「寂しかったら」なんて理由にもならぬ。この社会の甘さ。「覚醒剤打たずにホームラン打とう」と警察に言われてもホームランは誰にでも打てるものに非ず覚醒剤なら入手すれば誰でも打てるのだから困ったもの。
岩波新書では香港総領事だつた岡田晃の『香港』が旧黄版で香港返還の駐英合意後に出てゐて、旧青版にも戦前の赤版にも香港関連が出てゐた。香港の生活史では姫宮栄一『香港』が1964年に中公新書から出てゐる。今回の倉田先生と香港の社会学者・張紣暋のこれは1997年の香港返還後の、すでに見えた一つの到達点、それは想像以上に悲観的なものになつてしまつたが、そこから戦後の香港の歴史を倉田先生が政治史としてきちんと総括し、それに張先生が雨傘革命など現在の香港の空気を物語る共著。前者は香港の戦後史としてテキストとして完ぺきだが、それだけでは物足りず、張先生の物語もこの内容だけでは読み物で終わってしまふ。そこで政治史と物語が合本の形をとつたのは正解。

結局、植民地時代の香港の「自由」は、人権思想や道徳に支えられたものと言うよりも、政府から距離を保つ、あるいは放置される「自由」であり、政治的には明らかな限界も存在した。

その香港が中英合意で返還が決定し英国は最後の20年弱で急速な民主化を実施したわけだが、返還後の香港でのさまざまな「こんなはずじゃなかった」の想定外のことのなかで(この本で明確な指摘は見当たらないが)中共の介入でもなく、中共が「この程度なら香港でできるだらう」と信じてゐた地場の政治力のなさ。民主派、それに抗する形で組織された政府派、そして特区政府高官たちも結局のところ英国統治時代の〈自由〉がそんなものだつたから、そこで育まれた権力から距離を置き放置される自由しか会得してをらず、自ら中共を安心させるだけの自治が形成できなかつたことは深刻。(付記)どうでもいゝ程度のことだが本書の内容で一つ誤解を指摘しておくと張の第5章「雨傘運動」で赤いミニバスは「運転手が経路を選べる」とあるが紅巴は組織として自由にルートを決めてゐるが、これはあくまで組織として、で運転手の立場で勝手にルートを変えて営業などしようものなら組織からボコボコにされてしまふこと。

さすが晋三の目の敵たる朝日で晋三のお友だち夕食に招かれるほどの記者だけあつて晋三への理解は深い。
香港 中国と向き合う自由都市 (岩波新書)

香港 中国と向き合う自由都市 (岩波新書)