富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

fookpaktsuen2016-02-06

農暦十二月廿八日。歳末の土曜日。快晴。家人とふらりと長洲島へ。海岸を少し散歩して昼餉。また散歩して汁粉啜り船で還る。家人と別れ按摩に寄り帰宅。昼に脂肉のおかずで腹が空かず蕎麦を茹で啜る。昨年末にお会ひする機会のあつた伊藤章良さんの『東京百年レストラン』3冊読む。東京で百年続く老舗のレストラン探訪記と思ひきや伊藤さんが「百年続いてほしい」と願ふレストランの紹介であつた。
▼外国人受け入れぬ日本の変態ぶり。新聞記事(こちら)で紙を埋め尽くす手書きの漢字の写真に目を奪はれた。筆跡は入管の外国人収容施設で日本語を練習してゐたガーナ人男性のもの。彼を愛称で「バリー」と呼ぶ日本人の妻に残されたわずかな遺品の一つ。在留資格がなく、出入国管理法違反の容疑で逮捕され、通算2年弱のあいだ収容され妻にも知らされぬまゝ2010年3月、強制送還が実施されたが入管職員数人に抱え込まれて搭乗した機内で急死。過剰な制圧行為が原因として遺族は国を訴へ裁判は今後も最高裁で続く。

妻の誕生日に、彼が収容施設からしたためた一通の手紙がある。「今日は私の大切な日ですがとっても寂しいです ごめんね お誕生おめでとう またずっとういっしょうで頑張ろうね あいしてる アウドゥ」

この記事(朝日新聞、写真・文は鬼室黎記者)読んで思はず不覚にも涙。なんて非情な国と国民なのかしら。
朝日新聞の対談(こちら)でSEALsの若い娘たちと語らふ寂聴尼の言葉から。

みなさん、一生懸命にがんばりましたね。でもね(安倍晋三)首相に負けたでしょ。負けたと言うしかないわね。向こうの案が通っちゃったんだから。私も1人でデモに行きましたけど、本当は初めから負けると思ってたの。それでもやっぱり立ち上がらなきゃいけないのね。負けたけど、反対がこれだけあった、若い女の子ががんばった、私みたいなおばあちゃんまでデモに行った、ということは、歴史に残ります。夏の参院選が山だけど、勝つかどうか分からない。もし負けても、これだけ反対してがんばる人間が出てきたということで、向こうは肌寒い思いをしてるでしょう。完全な負けじゃないのよ。だから希望を持って。今はダメみたいだけども、自分の信念をやってみようと思ったほうが、人生が開けます。

この対談の下に佐伯啓思先生「拡散するナショナリズム われわれの「価値」は何か」(こちら)から。

「価値」とは、それに対する侵害者や破壊者に対しては身を賭しても守らねばならないものであろう。今日の欧米における反イスラムの風潮は、自由や民主主義を攻撃するイスラム過激派から彼らの価値を断固として守る、という信条をともなったものであり、そこに彼らのナショナリズムが生み出される。
では「われわれ」はどうなのであろうか。果たして自由や民主やそれに平和主義にさえ、それだけの確信と覚悟をおくことができるのだろうか。そうではあるまい。どうやら「われわれ」は戦後、確かな価値を見失ってしまったようにみえる。
とすれば、日本には、実は本当の意味でナショナリズムさえ成立しないことになろう。擁護する側も批判する側もせいぜい「ナショナリズムごっこ」をしているということだ。ナショナリズムの危険云々より前に、まずは「われわれ」が確信をもって守るべきものは何かを改めて問うことから始めるほかない。

中村桂子さん(JT生命誌研究館館長)生き物のなかで人間の特徴の一つとしての「交換」能力について。自分が欲しいと思うと同時に相手が何を求めているかを考え、そこに同等の価値を見出し交換できること。「お互いが納得できる喜びがよい交換」と、この指摘はあまりに正しい。以下、引用。

物々交換の面倒さを超え、お金を考えだしたことで物の動きはスムーズになった。しかし、お金のもつ合理性に惑わされた私たhcいは、ここでの交換に心を伴わせることを忘れてしまったのである。お金だけが一人歩きをし、私たちがそれに振り回されているのが今の社会。皆で得た利益を関係者一人一人の顔を思い浮かべ、家族のことまで思う心と共に配分するおき、そこにとんでもない格差は生まれようもない。働きや立場による差があることは納得できるが現状の格差は心が動かないために生まれている。(略)株主も本来、企業がよりよくなるための応援という心を伴う存在のはずである。(略)大事なのは社会の中で心という言葉を特別なものにしないことである。常に心を働かせてこその人間だという当たり前のことを社会の基本にしたい。

東京百年レストラン ‐大人が幸せになれる店‐

東京百年レストラン ‐大人が幸せになれる店‐