富柏村香港日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴る日剩でござゐます

fookpaktsuen2015-12-25

農暦十一月十五日。走るつもりで外に出ると雨。ミニバスでジムに行きトレッドミルで走る。昼に山形の庄司屋の更科蕎麦茹でる。静岡は川根の三浦製菓のお茶羊羹。週間読書人の年末号読む。午後遅く家人とバスで九龍城。いつもの順番で食料品店を流す。新三陽の二匹の猫が愛らしい。新三陽オリジナルの紹興酒は好物だつたが、もう売つてゐない。タイ料理の金蘭花で早めの夕食。金滿堂甜品でかつては冬になると榴槤系デザートはなかつたが今は冬もあるやうで榴星雨なる新メニューを注文する。ドリアン果肉の上にドリアンのアイスクリームとは榴槤好きには垂涎の品。
▼昨晩拝読の林ひふみさんの「台湾映画『セデック・バレ』のメイキング映像が伝えること」中央明治大学教養論集(通巻510号)について(覚へ書き)。魏徳聖監督にとつての〈海角七号〉と〈セデック・バレ〉そして〈KANO〉の3作の明確な位置づけ。〈海角七号〉は何だか台湾と日本の現代の若者の漠然とした戦前の台湾の日本的なものへの関心ばかりに映つたがが、ひふみさんは物語の中で台湾原住民が台湾映画史上ほゞ初めて肯定的に描き出されたことを取り上げ、そして〈セデック・バレ〉は原住民が主人公として歴史の中に描かれ、〈KANO〉では漢族、原住民と日本人といふ他民族社会としての台湾があり、〈セデック・バレ〉がなければ〈KANO〉はないし、〈セデック・バレ〉を撮るには〈海角七号〉の成功が必要だつた、この3作の関係をまず整理してみせる。そして話はいきなり映画のDVD商品に特典として付録にある「特典映像」になる。メイキング・オブ……といふ、あれ。侯孝賢といへば日本でも台湾代表する監督だが、この監督の〈珈琲時光〉といふ映画(これは本当につまらない作品だつたが)が日本でDVD化された際に159分にも及ぶ付属映像をつけたのだといふ。これにはアタシは香港で映画館で見る機会があつたが未公開シーンやインタビュー、記者会見に加へ“Métro Lumière: Hou Hsiao-Hsien à la rencontre de Yasujirô Ozu” といふドキュメンタリーも含まれてゐるが、そのなかで侯孝賢が〈珈琲時光〉は日本側ですつかり用意された内容を映像化する頼まれ仕事であることをあっけらかんと語つてゐる。侯孝賢のインタビューが、この映画撮影のために東京入りした監督のホテルで、それが新大久保かしら、山手線の線路沿ひの安ホテル*1だつたのが印象的。それをなぜDVD発売元の松竹が本編の付属映像にしたのか全く意味不明だが、ひふみさんは、この〈珈琲時光〉の付属映像を以つてメイキングオブ作品を含む記録映像の恐ろしさを「それが事実であるという根拠の強さにより丁寧に作られたフィクションを一度に揺るがしかねない」と指摘してゐる。で〈セデック・バレ〉にも付属映像がついてゐるのだが(これも香港で見る機会あつたが)これはその制作現場の困難を通して監督が何を考えてゐるのか、出演者やフタッフがそれをどう理解し作品に仕上げていつたのか、が実によく描かれた、メイキングオブとしては成功の作品。ひふみさんがそこで見たものは、しかし感動といつたものばかりでなく、セデック族がセデック語を今では漢字を当て字にして書かれた脚本でセリフを覚へざるを得ぬこと、最後にセデック族が自決する残酷なシーンで子役にそれを強ひる際、親がとつた手段が中国語でキリスト教の神に祈祷したこと等を挙げ、この映像を通して現代のセデック族と霧社事件で描かれた時代との大きな状況の変化を実に丹念に読みとつてゐる。
▼週間読書人の年末号読む。宮台・苅部と渡辺靖の巻頭鼎談も恒例で七年目。冒頭で宮台氏がかつてはこの鼎談で「古典を読むことの大切さ」なんて語つてゐたのに(確かにさうだつた)、それが今では世情切迫でそれどころではなくなつてゐる。何といつてもイスラム教過激派テロで一年が始まり一年が終はる年だが(一神教の)宗教と主権国家=世俗的最高性との関係。主権国家体制の樹立=1648年のウェストフォリア条約=宗教戦争回避のため各諸侯による信仰の自由といふ「手打ち」。宗教は選ぶものではなく襲はれるものといふ根源的な受動性を蔑ろにした虚構。ウェーバーによる〈近代〉とは計算可能性を齎す手続主義拡大といふ意味での合理化、脱呪術化を核とする世俗化。脱宗教化ではなむ宗教からの諸システムの(特に政治の)無関連化。だがキリスト教徒の脱宗教化が進み主権概念が「手打ち」であること忘れられ主権概念がまるで普遍的であるかのやうに思はれてゐること。確かにそのへんの誤解が大きいことが今になつて明確になつてきた、といふか戦前の人はそれくらゐのことは体感してゐたはずで、それが主権としての国家があまりに大きくなり現代人がわからなくなつてゐる。さうした大義的な話のあとで安倍政権について。それを「反知性主義」といつた安易な批判が目立つが、それに対しての渡辺靖の疑問視が興味深い。集団的自衛権や戦後70年談話だけではなくその他面で重要な政策がどんどん実行され社会が今後大きく変はつていくかもしれないのに、さうした政策に対する本格的な批判が目立たず、TPPや安全保障に関する一連の晋三のやり方は国内では乱暴と批判されるが海外一般では主権国家同士の争ひが激しくなつてゐるスーパーモダンの状況を踏まえれば比較的合理的に見える判断をしてゐると思へるわけで、それを「反知性主義」とか晋三はバカだと非難するだけで晋三のイメージ、取り巻きのタカ派ぶりで嫌悪感や警戒感をもつのではないか、と。もしもう少しハト派のイメージが強い政権だつたら同じことをしても世間の受け止め方は随分と違ふのではないか?といふが、そも/\ハト派のそんな政権だつたら出来ないやうな政策を次々と実現してゐるのが安倍政権でせう。

*1:この新大久保のホテルの話は朱天心の新著『三十三年夢』に出てくる、と林ひふみさんから聞く。