富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

Merry Christmas and a Happy New Fear!

fookpaktsuen2015-12-24

農暦十一月十四日。昨晩から濃霧(大気汚染に非ず)。早朝にハッピーヴァレイ。気温が摂氏21.6度で湿度96%は香港では春のやう。後で知つたが最高気温は摂氏24.7度で125年来最も暖かな、といふより暑いクリスマスイヴの由。早朝に養和医院。内視鏡検査。香港お得意の全身麻酔で早々に深い眠りに陥るが肛門からの大腸検査のあと口経で胃の検査された際に噎せ一瞬記憶さめたが気がつくと二時間近く経過。麻酔のあとの目覚めの爽快さ。看護婦の簡単な説明では大腸憩室症の由。胃腸がすつかり空になつてゐたので昼にパンを食べ飲料が胃から腸に下つてゆくのがしみじみとわかる。燈刻、霧の中に登る白月を眺める。晩に甘牌の焼鵝。家人の話では朝十一時半の開店で湾仔の甘牌焼鵝はテイクアウトも順番待ちだつたと。Château La Nerthe 2009年飲む。中央明治大学教養論集(通巻510号)に掲載された林ひふみさんの「台湾映画『セデック・バレ』のメイキング映像が伝えること」を抜刷で拝読。
▼行政長官CY梁の上京と北京中央への陳述。これまでの各国首脳や来賓迎へる際の人民大会堂での壁を背にしたソファでの対峙(写真左)から事務机での他の高官と並んでの陳述に 一国両制の形の変化象徴される、と話題に。椅子だけは同じなのが可笑しい。だが1997年以来、これまでソファで対峙で何か香港の自主権が認められてゐたか、といふとさういふわけでもないので寧ろ現実に即したか、といふのがアタシの印象。
朝日新聞の論壇時評(高橋源一郎)より。「難民」についての考察。難民とは一寸違ふが移民、異邦人についてリービ英雄とドイツ在住の多和田葉子との『世界』1月号での対話を紹介してゐる。「移民であることは実はその国の人間になりきれないところに価値があるのではないか」とリービが言へば多和田がドイツに暮らし文化に対する違和感は消えないが「違和感を幸せととらえる感覚の持ち主だから幸せなのかもしれません」と答へてゐる。アタシも香港に四半世紀以上も暮らし、この感覚は納得するところあり。高橋源一郎曰く

実際に「難民」や「移民」が直面するのは過酷な現実だ。それにもかかわらず、彼らは単に「憐(あわ)れむべき存在」なのではない。そしてそのことに、歓迎する者も排斥する者も気づいていないのだ。彼らが内に秘めている豊かな「可能性」には。

同じく東京新聞の論壇時評(佐藤卓己)「社会問題としてのテロ」秀逸。(渡辺啓貴の引用で)パリ同時テロ実行犯にフランス国籍の「社会適合できない移民二世の青年たちがゐたこと、貧困家庭で育ち軽犯罪繰り返し刑務所内でイスラム過激派に感化された彼らは「政治上、宗教上の核心的テロリストではない」。社会不満の捌け口としてのテロは社会問題であり「イスラム国」に報復爆撃繰り返してもテロは減少しない。オランド総統はこれを戦争行為と宣言したが(一神教同士で対話が成立する可能性に懐疑的な塩野七生も)これは戦争ではなく犯罪としたほうが文明の衝突回避する上でも適策で、犯罪なら徹底的に犯人を追求し裁くだけ、刑事犯なら結果がどう出ようとイスラム教徒の間でも納得がいくはず、と。(西谷修は)オランド総統の戦争宣言より3ヶ月も前にフランス軍はシリア空爆開始してをり既に「テロとの戦争」に(一方的に)入つてゐたわけで、かつては国家間の戦争目的は「勝利」であつて殲滅ではなく敵も対等な人間であり戦闘手段にも限度が存在した、が米国の911後の「テロとの戦争」は相手が抹殺すべき犯罪者で、あらゆる制約が解除され、この敵は国境を越へボーダレスに侵入するため「安全保障という名の恒常的な予防体制」下で市民全員まで監視される社会になる。「文明国」と称する側は非人類的な!敵を地球上から抹殺しようとし、その一方で自分たちはIT技術により隅々まで監視され管理される〈安全〉といふ牢獄のなかで安らぎ戦場で使はれる兵器と同じく全てを自動化した先端技術に身を委ね、もはや「人間のいらない世界」へと向かひながら、それでも生命科学でああらゆる病気からの解放や寿命の延長を夢見るといふ驚くべき倒錯を「進歩」と思ひこんでゐる、と。まさに今年を総括するに値する時評。
*画像は大気汚染深刻な中国で南京で見られたピンク色の霧霾。