富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

fookpaktsuen2015-12-26

農暦十一月十六日。曇。09:40に中環から梅窩行きのフェリーに乗り梅窩からバスに乗り継ぎ家人と大嶼山のハイキングで石壁から西南に向け歩き分流の岬へ。こゝから沿岸を北上して二澳の村を抜け大澳まで17kmほど歩く。分流の村には「海豚有自由、村人没有自由」と標語があちこちにペンキで書かれてゐるのは政府が大嶼山の観光開発で分流に海洋公園建設などブチ上げ頓挫の方向だが村民の立ち退きなども含まれてゐたため憤つた村民が「イルカに自由があって村民には」と抗議。石壁を出て長い引水路を過ぎ分流に下らうとする坂道でB君に邂逅。こんなところで、の山道だが昨晩から友人と野営しての帰路だといふ。二澳の村は十年以上前になるか政府が村民の居住権見直しに着手しようとして村民が怒りハイキングコースだつた道路を私有地につき立ち入り禁止に。政府も腰砕けで、もう何年も前に通行解除されてゐるが十余年ぶり。今では若者が共同で農地仮受け農作の風景。大澳から二澳に向かふ集落に海韻海鮮酒家といふ食肆あり。昔、トレイルウォークのあと何度か飰したが鄙びた店で精進料理の看板掛けてあるには地鶏料理を供し自家製の豆腐、新鮮な野菜も美味かつた記憶あり。たゞ場所も不便で鄙びて客も少なかつたが此肆が今では評判で路上に待ち客あふれるのだから驚くばかり。大澳は聖誕祭の連休でかなりの人出。蓮香酒家に赴くと女将曰く今日は何だか催事あり筵席料理の準備で肆は開けてゐないといふ。何処も彼処も混雑。泰記のXO醤贖ひバスで梅窩に出て波止場近くの料理屋で軽く早めの夕食済まし酒を飲みながらフェリーで中環に還る。
▼晋三の内閣で日韓が慰安婦「問題」で妥結に向かひ村山内閣ですら頓挫した賠償まで改めて検討されようとは。これとて民主党政権したで当時の佐々江外務事務次官(現・駐米大使)提示の妥協案で利を得たのは自民党。晋三にしてみれば飽く迄拘つたのは「日本軍=政府による慰安婦の強制連行はなかつた」といふ点であり慰安婦の存在じたい否定してをらず(南京「大虐殺」とは違ふ)、慰安婦が生まれたことは政府として遺憾。たゞ「あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」で韓国政府と政治的に妥結。その〆が米国政府による声明発表、来年3月に華府で開催される核安全保障サミットで日米韓3カ国首脳会談の案も浮上ださうで(27日・東京新聞)それを聞くと「さもありなむ」な話。この戦争責任や罪についてテッサ=モーリス=スズキは「罪はないがimplicationはある」とする(昨日の朝日新聞記事こちら)。テッサ教授は、このimplicationを「連累」と和訳して「直接関与していないにもかかわらず「自分には関係ない」とは言えない」そんな過去との関係を示した概念と説く。連累とは「事後の共犯」的な関係。収奪行為には関与しなかつたが収奪されたものに由来する恩恵を「現在」得ているケース。虐殺に関与しなくとも、その歴史を隠蔽したり風化させたりする動きに関与すれば責任が生じうる。

戦時の慰安婦制度の背景には性差別や民族差別がありました。河野談話を否定しようとする人々の言動を見ると、差別が日本社会に生き続けていることが分かります。歴史事件そのものに対して戦後生まれの個人が謝罪する必要は原則ないと思う。ただし国家は連続性のある存在であり、謝罪すべきです。また国民には、謝罪するよう政府に求める義務があります。

効果的な謝罪を政府がしてきたかどうか。「謝罪とは今の社会に残っている「過去の暴力の構造」との闘いでもあるのです」とテッサ教授の言葉は重い。
▼「中国が一家庭に一台の自家用車をもつことになれば地球がもたない」……中国の大気汚染深刻化のなか外務省が発表の外交文書の中にあつた訒小平の言葉。1979年の大平首相で。大平さんも「石油が欠乏し、電車通勤が便利なのに自家用車で通勤しようとする傾向がある、国民の欲望を政府が抑え切れるものではない、経済発展し過ぎるより小康状態を保つ方が良い。中国が小康状態を超えて発展することには賛成しかねる」と実に的を得てゐる。外相の大来さんが中国が改革開放路線に転換で所得格差拡大を質すと小平叔叔は「現在さほど大きな格差は開いておらず、今後とも永遠に大きく開くことはない、中国から資本家を出すことは今後ともあり得ない」答へたさう。訒小平とてその後の経済発展の速度は想定外だつたとは、そりゃ贈収賄も大気汚染も深刻になるわ。