富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

fookpaktsuen2015-08-28

農暦七月十五日。Macの辞書機能がiClould通していくつもの末端でも新規買ひ替へでも不自由しないばかりかiOSも連動するやうになりiPhoneでも重宝してゐるが旧仮名で「言ふ」と打つ時は「言う」と打つて「う」を消して「ふ」と打つやうな作業は自然としてゐるつもりが、あれ?と気づいたらiPhoneで最初から「言ふ」が出てきて驚いた。ついに旧仮名変換まで、と驚いたが、だうやらまだ動詞のみで「やうす」で「様子」は出てこない。早晩にC氏のプロダクションオフィスで毎年恒例なのだといふ八月末のBack to Schoolと題したパーティあり18時から開始と案内に顔出すがまだ準備も途中で解放式のオフィスではみんな仕事中。ご挨拶も憚れる。炮台山。新和富で食事会。土佐の司牡丹や豊能梅、無手無冠といふ酒のおり酒と古酒もいたゞく。新和富の数軒隣が貓山皇といふ榴槤専門の甘味屋。家人と新和富の前にまだゐた令嬢二人連行して榴槤づくし。
▼朝日で再連載の漱石「それから」読んでゐると作中に「夜間投函」あり。昔=不便、今=便利に非ず、昔は郵便出せば都内は翌日の早朝配達、夜間もあり市電も遅くまで走つてゐたもの。
▼岩波『世界』九月号で駒村圭吾同性婚と家族のこれから」秀逸。米国最高裁判決で同性婚認められたが、これがピンとこなかつた私。ゲイリブも同様。革新的なやうで実は保守的なんぢゃないか、と(保守が悪いとは思はないが)。駒村教授が指摘するのは「同性愛者たちが求めていたのが婚姻という制度に付随する利益や法的資格を異性愛者に独占させず我々にも開放せよというものであれば何も同性婚を認めさせる必要はない」わけで「伝統的な婚姻制度の特権性を相対化する戦略も取り得た」のに結局は「それほど婚姻という言葉が持つ文化的権威性が依然として確固たるものであるから」と。御意。同性愛といへば週刊文春で武藤先生が未成年の売春成年見つけたと書かれてゐるサイト見てみたが、なんてお気軽な金欠⇄サポの世界。伊勢丹で良い靴見つけた!→金ねぇし、サイト書き込むか……「いま新宿です。すぐ会える人いますか?2以上。何でもします!」ですぐ釣れ適当なテルホで床入り→2時間後には無事に靴ゲット♫か。男子女史問はずわかりやすすぎ、お気楽すぎ。だがかなり基本的な相互互助制度といへば、それまで。
▼『世界』同号の柄谷行人反復強迫としての平和」は日本で現在を1930年代に似てるといふ人が多いが、これは間違ひ、むしろ19世紀末の帝国主義の時代にこそ似てゐる、といふ指摘は興味深い。その上でカントの平和論から憲法9条への日本人のコダワリは一種の強迫神経症であり無意識的罪悪感を示すもので「占領軍の強制によって生まれたにもかかわらず日本人の無意識に深く定着した」のは「意識的な反省によるものではなかった」からで、これが意識的な産物だつたら9条はとうの昔に抛棄されてゐただらう、と……なるほどね、であるが、最後にこれからの平和はいかに構築されるか?は「資本=国家への抵抗運動」で、それら各地の運動の連帯で「新たな国連を構築する」といはれると柄谷節に私はちょっとついてゆけない。