富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

野火

fookpaktsuen2015-08-06

農暦六月廿二日。猛暑。今日も虎ノ門。早晩に解放され銀座線で渋谷。東急文化村の美術館で「エリックサティとその時代展」見る。バレエ「パラーデ」のパンフレットの原画などピカソ直筆のデザイン画などオリジナルかなり並ぶ。27年ぶりくらゐでユーロスペース(移転済み)。塚本晋也監督の映画『野火』見る。大岡昇平の原作が根底にあり、その筆致は今でも強い印象にあり、高橋源一郎氏が先月の朝日論壇時評(こちら)で書いてゐる。

大岡昇平が、太平洋戦争の激戦地レイテ島での経験をもとに書き上げた『野火』は、単に戦争小説の傑作であるだけではなく、およそ「文学」と呼ばれる人間の営みの頂点に属する作品だ。主人公の「田村一等兵」は、他の多くの日本兵と共に、食糧も弾薬も尽きた中、米軍や地元民からの攻撃を恐れながらジャングルをさまよう。兵士たちは次々に、砲弾で肉体を粉々にされ、倒れ、まだ生きたまま蛆虫に食われてゆく。そしてその倒れた兵士の肉を、生き延びるために別の兵士が食うのである。このような過酷な経験を描いた「戦争小説」は数多くある。だが、それらの作品と『野火』の最大の違いは、「田村」がまるでカメラと化したかのように、風景や起こった出来事を、異様なほど精密に記録しつづけていることだ。狂気が覆い尽くす戦場にあって、正気でありつづけるために、他の選択の道はなかった。兵士たちは意味なく飢え、死んでゆく。そのほんとうの理由を教えてくれる者はどこにもいない。「田村」は、いつかやって来る、すべてを公平に裁く者に引き渡すために、なにもかも「記録」しようとしたのかもしれない。だが、戦場にあって正気でありつづけること自体が、また別の狂気であることを作者は知っていた。

そんな作品を塚本晋也によつて映画化されゝば当然のやうに期待も増す。源ちゃんのコメントを長く引用すれば

1960年生まれの映画監督・塚本晋也が、『野火』を映画化した。その試写の席で、わたしは文字どおり椅子に釘付けにされ動くことができなかった。それは、画面に映っているものが「過去のできごと」に見えなかったからだ。目の前で肉体が砕け散るとき、観客はその痛みを感じる。兵士が腐肉にかぶりつくときには、その腐臭から顔をそらす。塚本は、30代で映画化を公言して以来、その実現に奔走した。だが、資金はなかなか集まらなかった。「そうこうするうちに、戦争の愚かしさは普遍的な当たり前のことだと思っていたのが、自分が愚かしいと思えば思うほど、戦争のことを愚かしいと思う風潮が消えつつあるということが、この作品のつくりづらさをますます加速させているかもしれないと感じるようになっていきました」。やがて、塚本は、資金が集まらないなら、ひとりでアニメを描くか、カメラ1台を持ってフィリピンで「自撮り」をすることまで構想するようになる。その塚本の「狂気」は、戦場の狂気に圧倒されないために、「田村」が陥らざるを得なかった「狂気」を思わせる。主人公の「田村」は監督の塚本自身が演じた。その演技は、圧倒的だったが、それは塚本と「田村」が同じ「狂気」を共有しているからのように思えた。

塚本監督自身演じる田村は見事。田村の精神世界を塚本晋也の表情から、目から窺ひ知ることのできる出来栄え。だが「怖い」「凄惨すぎる」と聞いてゐた縦走射撃で飛び散る兵士の肉や血、腐つて蛆のわく顔や足、人肉喰ひといつた場面が一箇所だけでも象徴的に使はれるならまだしも、あそこまで「これでもか」だと慣れるといふか不感症通り過ぎ、まるでB級スプラッター映画見てゐるやうで「またかよ」となる。あれは凝りすぎで失敗。レイテ島の戦場の、といふか置き去りにされた日本軍の兵士らの悲愴さを映像で見せたいのはわかるが映像の怖さは必要以上にリアルに伝へやうとするとコミカルになること。大岡昇平の原作では最後まで悲しみが壮絶さ上回つてゐたが、この映画では失敗したと言はざるを得ない。それにしても敵軍と戦ふよりも、置き去りにされ兵站からの連絡や物資も途切れ、たゞレイテ島の山奥で飢ゑてゐる我が軍の惨さ。「あの戦争とは何だつたのか」を加藤陽子教授が5日の朝日新聞の戦後70周年の特集記事で語つてゐる(こちら)。先づ戦後50周年の村山談話から「わが国は遠くない過去の一時期、国策を誤り戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ……」といふ「主語」の問題を指摘。敵国ではなく「わが国が」国民を存亡の危機に陥れたと語らなければならない戦争とは一体、何か?と。その問題の核心は「残虐な死」の多発。国家の中心部を守るために(敵前方である)周縁部で戦ふ……そんな軍の防衛思想を国民に強いた戦争であったことが背景にあつた、と加藤教授。

戦場にされた周縁部には、満州中国東北部)やビルマ、千島列島、フィリピン、太平洋の中部や西部の島々など、実に様々な地域が含まれます。それらの地では戦争終盤、指導部によって放棄された戦線で兵士の大半が餓死を強いられたり、現地に住んでいた日本国民が自国軍に置き去りにされて死傷したりする事態が相次ぎました。

と、まさに『野火』の世界がこれ。戦没者310万人のうち240万人の死亡が「海外」。「個々の兵士の死に場所や死に方を遺族に伝えることさえできなかった国」が日本。沖縄もまた周辺部。軍内部にすら国力で敵はぬ米国との戦争を回避できなかつた理由は何か?……石油問題など様々な要素はあるがありますが米国が重視したのは中国市場を含めた東アジアの自由貿易体制で、それを日本は承認できず、中国や東南アジアでの権益確保=大東亜共栄圏。TPPも当時のアメリカの発想と一緒。なぜ戦争で合理的な見極めが出来ないのか?

合理性を貫徹できる軍隊を持つ国があるとすれば、それは戦史を正確に編纂できる国、戦争を美談にしない国です。日本は残念ながら、日露戦争がぎりぎりの辛勝だった事実を隠した国でした。

これでいへば現政権も出来てゐない戦争の正確な理解で「つくる会」的に戦争を肯定となる。それでも当時死守しようとしたのは「國體」。國體は「万世一系天皇が君臨し統治権を総攬すること=天皇制となるが実際には天皇の大御心すら無視できる点は当時と今も変はらない。戦後の新しい憲法は日本人と戦争の関係を変へたのか?

変えたと思います。たとえば、戦争中に「残虐な死」が大量に生み出されたのは「すべての個人の生」を国家に捧げるよう国民に要請する時代だったからです。他方、戦後の憲法は「基本的人権の尊重」を明確に定めている。国民はもはや国家に利用されるだけの存在ではなく国家に対してそれぞれの「個」の存在が確保される形に変わっています。国民である以上、戦争の苦悩は受忍すべきだ……そんな考えは現憲法の認めるものではありません。

映画が終はり麻布に還るつもりで恵比寿へ。折角なのでと恵比寿駅前の横丁に入ると「さいき」混んでゐるがカウンターに1席だけありお通し三品でビール1本。昔は大人多く入るだけでも緊張した店が旦那も女将さんのゐたカウンターには若い女性三人が切り盛りで客も若い客ばかり。私が最高齢とは。恵比寿神社近くのバーEas Morで飲む。恵比寿の店も随分と変はつたが神社側に「彦市」あり懐かしい。家人が中央線の快速最終で立川から戻つてゐたので新宿に戻り周末三更の恐ろしい混雑のなかで家人と落ち合ひタクシーで麻布鳥居坂旅寓に戻る。