富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

積極的平和外交

fookpaktsuen2015-01-25

農暦十二月初六。快晴。香港マラソン。第2回から10km→ハーフ→フルと出場してゐたのも今は昔、今年も傍観決め込む。朝からお香炊いてのんびり。NHK日曜討論に晋三の尊顔拝す。早晩まで陋宅にこもり机上整理、積み上がつた雑誌など目通し。文藝春秋は二月新春号読むが『世界』は昨年七月号。岩波の図書一月号。今日の競馬は香港三冠の初戦でThe Steward’s Cupで地場G1だつたのが今季国際G1に格上げ。G1で海外馬も出走可なら確かに国際G1だが、確かにこの三冠の最終競争がCharter Cupで国際G1になつてはゐるが箔つけだけで国際G1にしたところで、ねぇ。でマイルなので12月の香港国際で圧倒的強さ見せつけたエイブルフレンドが9頭立てで対抗馬もなく余裕で1着。12月の国際以来の馬券購入で、これを軸にビューティーフレーム(5番人気で23倍)とリワーディングヒーロー(ブービー人気で48倍)に流した2点買ひの三連単が見事に的中(136倍)。早晩にZ嬢と西湾河の蛇王福に蛇羹など飰す。この冬、初蛇。
NHK日曜討論。晋三は戦後70年談話につき過去の談話(村山、小泉)を全体としては受け継ぐとしつゝ「先の大戦に対する痛切な反省と同時に戦後70年、自由と民主主義を守り人権を尊重し法を尊ぶ国をつくってきた」として新談話では「日本は世界にどのような貢献をしていくのか、どのような世界をつくっていくのかという未来に対する意思をしっかり書き込んでいきたい」と宣ふ。未来志向もいゝが「植民地支配と侵略」や「痛切な反省」「心からのお詫び」といつた文言の推敲を「こまごました議論」とは、さすが頭が悪くないとこゝまで断言できぬ。京大学長の山極壽一先生が学校教育での「道徳」強化につき「道徳を教える前に恥と罪を意識する信頼できる共同体づくりが先決」と毎日新聞だかで語つてゐたが、まさに晋三こそ「恥と罪」を知るべき。戦後談話はトンちゃん談話の文言継承すべきなのは歴史修正主義者で「あれは侵略ぢゃない、アジア解放」と信じてゐたとしても少なくても体面上は反省してみせれば(内心は反省してゐないから舌禍となるのだが)相手の面子も立て世の中上手くいくもの。それを稚拙に威風翳すのだから困つたもの。戦後の日本に誇りもつのはいゝし未来志向もそれぢたい問題ないが韓国、中国との関係も刺々しいまゝ何が積極的平和外交か。晋三の先の中東歴訪とて「イスラム国と闘う周辺各国に総額で2億ドル程度の支援をお約束します」と晋三(17日にエジプトでの演説、こちら)。結果論だが日本人の人質二人囚われてゐるなかで政府も迂闊、相手さんはこれを待つてゐただらうに。政府はあくまで難民支援の人道的援助だと嘯くが、このスピーチのなかで晋三は

イラク、シリアの難民・避難民支援、トルコ、レバノンへの支援をするのは「ISILがもたらす脅威を少しでも食い止めるため」です。地道な人材開発、インフラ整備を含めISILと闘う周辺各国に総額で2億ドル程度支援をお約束します。イラクでは全党派を含む国民融和内閣による安定的な統治が絶対に必要です。日本はそのための努力を支援し続けます。地域から暴力の芽を摘むにはたとえ時間がかかっても民生を安定させ中間層を育てる以外早道はありません。「中庸が最善(ハイルル・ウムーリ・アウサトハー)」。日本はそこに果たすべき大いなる役割があると考えています。

と確かに難民支援だが目的はまさにイスラム国の脅威を食ひ止めるためと言ひ切つてゐるではないか。晋三の云ふところの「積極的平和外交」の真骨頂。そのお返しとしての人質殺害。わかりやすい構図。それでも晋三は懲りずに集団的自衛権の行使容認に加へ米国がお友だちに呼びかけるイスラム国掃討に向け自衛隊多国籍軍への後方支援につき「海外で邦人が危害にあった時、現在自衛隊が持てる能力を十分に活かせない」として自衛隊邦人救出警護のため武器使用まで拡大の由。風吹けば桶屋が儲かる、まさにマッチポンプの図式。呆れて言葉もなし。
文藝春秋二月新春号は特集が読者投稿「素晴らしき高度成長時代」で、このネタならアタシだつていくらでも語り尽くせぬが今更これを思ひ返したところで何にもならぬぞよ。倉本聰さんが随筆で「日本人はどうしてこんな簡単に他人の痛みを忘れるようになってしまったのか」と嘆いてゐる。敗戦に小学校6年だつた倉本少年は「資本主義とは何か?」と先生に尋ねる。

これからは壊れないものを作ってはいけない。それが資本主義だ。壊れたものは直してはいけない。捨てるんだ。そうすると新しい物を作らなくてはいけないから新しい商品が出てくる。そこで循環が起こっておカネが回るから世の中が豊かになる。

と教へてくれた先生の才覚。「経済成長を表現する言葉の一つに「右肩上がり」という言葉があります。これは資本主義においてドグマと化し消費が拡大しないかぎり我々は不幸になる、とみんな思い込まされています。しかし自然に右肩上がりはありません。耕作地を広げるとか、農薬を開発するとか、そういった形で多少の増産は可能ですが結局のところ太陽の恵みの範囲でしか生育しない自然のものには右肩上がりはないんです。我々はそのことをもう一度よく考えるべきではないでしょうか」といふ倉本先生。