富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

Je ne suis pas Charlie

fookpaktsuen2015-01-11

農暦十一月二十一日。日曜だが官邸で書類整理続く。晩暗くなつて帰宅してパイを焼いて飰す。年老いてピッザは勿論、パイ皮ならぎり/\かな、と思ふが今晩は餃子の皮を敷いて、で、これはかなり良い。白ワインは豪州、Chapel HillのThe Chosen 2012年。これ飲んだだけで「韓国に帰化しろ」とか言はれるのかしら、今のご時世では。ビデオニュースドットコムで九日に有楽町の外国特派員協会であつた元朝日新聞記者・植村隆氏の記者会見録画見る。日本語で話して英語で通訳していく、って聞いてゐて時間が倍かゝる。同日、植村元記者を「捏造記者」と書いた文藝春秋と西岡某を名誉毀損で訴へ損害賠償を求め提訴。植村氏を雇用することで北星学園大への嫌がらせもひどいが西岡某紹介する際に「東京基督教大学教授」と紹介することも気になる。植村、西岡両氏の個人としてのことであり大学は関係ないだらう。植村元記者の記事と吉田証言の混同がひどいが、この記者会見ですら植村氏に対して「家族も含め被害者的な発言が続いていますが(ところで)吉田証言に関しては記事を何本書いたのですか?」なんて質問が出るのは象徴的。植村バッシングの記事こそ捏造で、家族までネット上で晒され炎上に小林節先生ら支援にまわる。世の中の寛容のなさ、だが少なくてもイスラム教狂信的テロが起きるのはイスラムへの非寛容や偏見に対する「本当の憎しみ」。それに対して「植村は捏造記者で非国民」は批判する者にとつて実は本当の憎しみがないバッシングにすぎず。勿論、植村元記者の記事で「女子挺身隊として」は当時、韓国で従軍慰安婦と女子挺身隊の言葉に混同があつたといふし「騙されて連行された」といつた記述の正確さに問題あり。慰安婦だつたと名乗り上げた女性がキーセン学校出だつたことや親に売られたことに触れておらぬ。そこは非難されても仕方ないことだが、慰安婦問題の責任をば植村元記者個人、その家族に向けることの誤謬。とんでも怖い時代になつてしまつた。
▼フランスで風刺週刊誌がイスラム教嗤ふ風刺画載せイスラム教過激派によるテロ。テロはいけないし反テロの世論盛り上がるのは結構だが、そも/\特定の宗教に対する風刺=宗教への冒瀆は言論表現の自由で許されるものなのか。アタシもさんざん政治家や権力者をば嗤つてみせるが宗教については自分の感覚がだうであれ信者にとつては大切な信心だと思ふと雑言は避けるべき、と思ふのだが。今回のこの事件への反テロで“Je suis Charlie”なんて出版社支持のプラカード、アタシはとても持つ気にはなれない。

2011年に9.11事件に衝撃を受けたアメリカが、世界貿易センターの3000余名(当時は5000と推計されていた)の死者やハイジャックされた飛行機で亡くなった犠牲者を「ヒーロー」と呼んでいたことに醒めた目を向け、アメリカが中近東でやって来たことを批判して冷静さを訴え、「テロとの戦争」に反対し、なかにはアメリカ人の感情論を揶揄すらしていた者もいたのは、フランスだった。数で比較するものでもないが、とはいえ今回の事件の死者は関連性を疑われる(というか警察がしきりにそう示唆している)銃撃や立て篭りを含めても、20余名でしかない。(略)
10年前のフランスであれば、必ず即座に上記のような指摘をする知識人や芸術家がいたはずだ。言論の自由とはまさに、こういう時のためにこそある権利でもある。だが今回の事件では大勢のフランス人が、かつてなら「およそフランス人らしくない」と言われそうなお揃いの「Je suis Charlie」で「連帯」を声高に言い張る一方で、辛うじて聴こえる良心的な発言もせいぜいがフランスに住むイスラム教徒(推計で8%)との対立と社会の分断を危惧するだけで、これまでも差別され、事件後にはすでにモスクへの銃撃が起きているムスリムのフランス人(アラブ系でも、同国の国籍保有者だ)の人権を語る声は聞かれない。9.11やアメリカのイラク攻撃が起こった時に、ブッシュ大統領(当時)相手に外交的大立ち回りを演じたド・ヴィルパン元首相ですら、ル・モンド紙に「戦争への誘惑に乗ってはならない」と警告する文章を寄稿したのがせいいっぱいで、それでも重要なこの警告の言葉その通りに、社会党政権であるはずのフランソワ・オランド率いる政府の対応はすでに右派政権よりもアグレッシヴな「テロとの戦争」の様相を呈し、パリは迷彩服に小銃姿すら目につく厳戒態勢にある。(略)
これはあくまで集団殺人事件だ。2001年以降、集団殺人=テロと呼ぶことが報道の通例となったが、振り返ればその2年前、たとえばアメリカのコロンバイン高校で起きた集団殺人事件を「テロ」、犯行後自殺した二人の男子生徒を「テロリスト」と呼ぶ者はいなかったし、このパリでの事件の本質は、このコロンバイン高校事件とそんなには変わらない。この襲撃を命じたと言うアルカイダの声明も、「標的の選択は彼らに任せた」と正直に告白しているのだ。
フランス人の皆さんには、少し冷静になって、事件を歴史的かつ社会的な文脈で、今メディアで言われ政府が追認しているのとは異なった視点で見てもらいたい−これはあくまで、フランス国内の事件であり、国際政治の権力闘争よりも、フランス国内ゆえに問題で起こったのではないか?

これは日仏共同テレビ局「これはテロでなく集団殺人事件だ Parisシャルリ・エブド襲撃事件を斬る」(こちら)からの引用。
▼アタシはよく日経を「株屋相場師の新聞」とか「さすが日経さん」と揶揄するが今日の日経で連載・地球回覧「日韓、試練の国交50年」(内山清行・ソウル特派員)や同じく連載の中外時評「未来をどう語るか 象徴的行為が動かす歴史」(小林省太・論説委員)が秀逸。前者は

安倍政権は佐々江案*1に冷たい。日本では、慰安婦の強制連行を巡る朝日新聞の「誤報の放置」に批判が集まり、嫌韓感情が広がる。外務省幹部は「今は首相に慰安婦問題を相談できる雰囲気ではない」と話す。
日本側がゼロ回答で政治的な妥協は生まれない。慰安婦問題で旧日本軍の関与をみとめ謝罪した「河野談話」の継承や、戦後70年の節目にだす「安倍談話」の内容に疑念がわくようでは、隣国と信頼関係をつくるのは難しい。
日本外交の基軸である日米関係には「同盟管理」という言葉がある。同盟は安全保障条約を結んでいるだけではだめで、不断の手入れが必要だという考え方だ。安倍政権が進める集団的自衛権の行使容認も、その文脈にある。
国交正常化時に締結した日韓基本条約や請求権協定にも「条約管理」という発想があっていい。相手の解釈に不満があっても、結んでよかったと互いに思える形にする努力が必要だ。韓国内には、日韓国交50年を期に「基本条約見直し論」がくすぶっている。

と……全くその通り。後者は両陛下の10年前のサイパン慰霊と、そこで困難踏まへ韓国人の慰霊碑にも拝礼されたこと、そして今年のパラオ訪問について語つた上で

一方で、安倍首相の言動には政治的な意味を伴った象徴性がある。発したいメッセージは「未来」であろう。「談話」もその一環なのだろうが、より雄弁な一つの行為も必要なのではないか。日本と世界にどんな未来を望み、それを実現するために大切なことは何なのか。それを象徴するような行為が――。

よくぞこゝまで言つた、それも日経さんで、である。この論説委員さんが立派。
▼本日の競馬、香港ジョッキークラブ設立130記念の地場重賞レースあり一昨年末の香港国際以来で行政長官CY梁沙田競馬場の7万人の観衆ゐる鉄火場に罵声浴びるが為来臨の由。レース後に馬場での表彰式に姿現したCY梁には当然の如く罵詈飛び交ふ。親切にも生卵持参で投げつける輩もおり卵はCY梁には命中せず。生卵は「競馬観戦中に精力増強のため呑むつもり」と言ひ訳も難しいだらうが持参のiPadで「☂我要真普選」といふスローガン翳した青年まで警備員に連行されるとは……刑事罰に当たらず釈放。CY梁ばかりか政務長官の林鄭月娥に加へ嫌はれ具合ではCY梁に勝るとも劣らぬ教育長官呉某夫妻までご一緒。

*1:韓国側は野田政権当時の12年3月、佐々江賢一郎外務次官が訪韓した際に打診した提案に期待をよせる。「在韓日本大使が元慰安婦と面会し謝罪」「首相による談話」「日本の政府予算を使った元慰安婦支援」の3点セットだったとされている。:記事より引用