富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

一人一人にとつて少しでもよい年に

fookpaktsuen2015-01-04

農暦十一月十四日。晴。午前中小一時間走る。年暮から年初の食べ過ぎで焼け石に水だが昼抜き。午後Z嬢と銅鑼湾に買物。晩飯でChâteauneuf-du-PapeのCh. La Nerthe 2006年飲む。NHK大河ドラマ見なくなつて久しいが「花燃ゆ」の初回を見る。いきなり、で登場人物の関係がわからずiPadでこの番組サイトの登場人物と照合しながら、なのはアタシの耄碌の所為か。今回のこの物語は長州で松蔭、松下村塾が舞台は「晋三への媚売り」とも揶揄されたが第一回で「禁書も価値あり」とこれは特定機密保護法反対といふNHKの矜持か……なんてね。入江敦彦『やっぱり京都人だけが知っている』読む。タメになったやうなどーでもいゝやうな……でも京都語るときに冒頭が「パン屋」であるセンス。でも京都はやっぱり素敵。
▼皇居一般参賀に対して陛下の「国民一人一人にとつて少しでもよい年に」との言葉。「日本にとつて」でもなく国民「一人一人」なのが個の尊重であつて、「よい年に」だけなら形式的だが「少しでも」で本当に現実味を帯びる。陛下がどれだけ今の世を憂いてゐるか。新年にあたり両陛下が昨年詠まれた歌からいくつか発表されたが本当に立派なお歌ばかり。ドナルド=キーンが朝日新聞(三日)の正月対談(こちら朝日新聞漱石三四郎」再連載中に合はせての漱石論は多少無理もあるが、この二人の対談が面白くないはずがない)で詩人の金子兜太と語るにあたり「私にとって年上の方との対談は大変珍しいことです」とキーン先生の切り出しから愉快だが兜太さんがキーン先生の子規論から「詩人たちがむしろ好むのは俳句や短歌を作ることで現代の世界に生きる経験を語ることだった」と子規の功績に言及してゐたが陛下の御歌など、まさにその極み。
▼「歴史は本当に終わったのか」と題した日経のフランシス・フクヤマ氏の時評が興味深い。ロシアについて。ロシアは欧州で重要なパートナーとなるはずだつたのにプーチンの登場でワケのわからないファッショ的なナショナリズム国家となつてしまつたことへの失望。中国は「中国モデル」なるものが存在するとしたら(それはマルクスレーニン主義少々、儒教思想少々と露骨な利己主義だ、とフクヤマ先生w)中国はそれはあくまで中国に最適なモデルであつて←「中国の特色ある」ってのがこれか!、そのモデル=体制を(米国のやうに)他国に広げる気は無く←だから米国などの中国に対する民主主義がだうのかうのといつた発言に「内政干渉」と反発!……この中国分析はさすが。で「歴史の終わり」だが民主主義と資本主義で何が上手く機能してゐないか。民主主義では米国のイラク戦争に見られる(その後の対テロもさうだが)他国への介入で、本来、民主主義は模範を通じて(つまりそれが米国)広がるべきなのにイラク戦争で米国はこの信頼裏切つたこと←ネオコンは世界に民主主義広めるためといふ大義フクヤマ先生の理論まで悪用か。資本主義は金融危機の発生。金融の役割は本来「生産に必要な資本を提供し経済を支えること」なのに自らの利益を得ることが目的化。自由化された金融市場は不安定で危険。市場自由主義は終らせるべき。近代経済学も間違ひは「効率的な市場では誰もが社会の効用に見合う収入を得る」と想定したことで、巨額のカネを稼ぐファンド運用者はそれだけでまるで社会に貢献したやう。だが金融危機前に企業利益の4割稼ぎ出した彼らは危機で社会に莫大な損失をもらたした、と。その上(本来、社会の経済活動を底で支へるべき彼らが)資本主義制度を支配する勢力になつてしまつた!とフクヤマ先生。御意。そして世界は今や政治がさうした金融集団に支配され金融ばかりか石油、農業といつた特定の利益集団が上手く政治を利用してゐるが、これは平和と繁栄の時代が続くと「制度を利用する術を知るエリート」が力を増すばかりで富の集中と経済格差*1がこれに拍車をかける。割を喰つた国民は政府不信、政治は支持失ひ権限が一段と小さくなる悪循環。……言ひ得て妙。たゞかうなると、この悪循環打破できるだけの施策は何か、となると<戦争>しかなくなるのね、気分はもう戦争

やっぱり京都人だけが知っている

やっぱり京都人だけが知っている

*1:この点についてはトマ=プケティにつながるがフクヤマ先生は格差の原因はピケティ先生の「資本そのものの特性」より寧ろ技術革新やグローバル化だらう、と。