富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

佛山天地(瑞安集団)

fookpaktsuen2014-12-27

農暦十一月初六。氷雨。昨日は暖かかつたが今日は気温は摂氏12度くらゐ。何度か夜中に目覚めたが珍しく朝七時まで寝る。クラブラウンジで朝食。VPN咬まして中共からもNHK-FMのウィークエンドサンシャイン視聴したら今日は年末で「ラジオの魔法、ラジオのチカラ」午前中いっぱいの特別番組で矢野顕子さまもゲスト出演。ホテルのある区域は広東金融高新技術服務区ださうでHSBCや広東発展銀行などの高層ビル立ち並ぶ。がすでに開発の限界超えてゐるやうで絶対にテナントが埋まらないであらう高層ビルも途中で建築止められず細々と工事進んでゐるが未だだいぶある更地、掘り起こしただけの赤土の盛土は見てゐて痛ましいものあり。ホテル北側に保利水城といふ大きなショッピングセンターありAeonが主なテナント。このホテルもビルの半分は保利集団で、よーするにこの地域のデベロッパーが保利。ホテル業も小売業も需要追ひつかず賃貸収入など収益上がらず一般の民間企業ならとっくに経営危機だが国務院背景にした財閥なのでワケが違ふ。(Aeonは賑はつてゐるが)日曜日の朝でこれくらゐの人出?の保利水城のなかを抜けてバス停に出てみると市西南の石湾にある南風古灶が終点のバス(120系統)あり今回の旅行ではそこまで遠出考へてゐなかつたが折角なので120系統で市街地通り抜けて1時間で石湾。百聞は一見に如かず、で南国の窯業の一大生産地として栄えた石湾の見事な窯業の施設や名家たる林氏一族の邸や周辺に残る清末からの建物を参観。バスで市街に戻り祖廟に近くで見かけた北香園の支店(恐らくフランチャイズ経営)で二日続けての餃子。祖廟とカンフーの李飛鴻記念館はパスして「嶺南天地」に足を踏み入れると並んだ古い建物を見事にブランド並ぶショッピング街にしてゐるが「作りすぎ」の感あり。土曜日の午後でこの人出では苦戦のはず。中心部はまだいゝが周辺はさうした商店街の上に嶺南風の設計ではあるが高層マンション建ててはみたが、これもかなり無理あり。この開発をする瑞安集団はさらに欲を見せ古い住宅など並ぶ一帯買収したが既に分譲中のマンション売れ残り路面のテナントも入らずシャッター商店街化してをり今後の開発困難のはず。高層ビル立ち並ぶ都市化も醜悪だが環境保護の名目で古い建築物残すのは開発権獲得のための名目だけ、でディズニーランドの中にあるショッピングアーケード造るやうな発想で街づくり出来るはずもなし。

在佛山,近年來商業綜合體如雨後春筍般成長林立,這種模式帶來的一站式購物、休輭、娛樂的需求正逐漸被市民認可和接受,千燈湖商圈、祖廟商圈、季華商圈等蓬勃發展讓購物休輭的選擇越發多樣化,嶺南天地憑什麼在眾多商圈裡脫穎而出,成為佛山市民的消費首選?
優雅舒適的環境當然是嶺南天地的最大優勢,然而,單憑環境就能打動消費者麼?在東方廣場有著多年餐飲業經驗的李曉莉覺得不儘然:“來我們店裡六成以上的客人是剛剛逛完超市或百貨、或看完電影,倘若沒有吉之島、沃爾瑪、明珠百貨等吸引客人,我們店或許早就開不下去了。”

といふ指摘(こちら)はその通り。市の中心地のため開発をここで止めては……で二進も三進もいかぬやうだがいっそのこと公園にでもしてしまへば。

市街地の中心部でありながら再開発停滞で「何故にこんなところに地下鉄の駅がっ!」てな感じの普君北路站から地下鉄に乗る。採算合ふのか?といふ佛山最初の地下鉄だが广佛线の名の通り西朗で広州地鉄1号線と連絡。千灯湖站で下車。この地下鉄がせめてあと1ブロック西を走ればホテルからも、保利水城のショッピングセンターや立ち並ぶ銀行からも便利なのに站から地上に出ると、どこまで開発されるか不明の殺伐たる開墾の光景。バスで水城まで来てホテルに戻る。ホテルのフィットネスセンターで5kmだけ走る。昨日に続き魯迅の書簡集読む。政情不安定な上海で魯迅先生曰く「テロが目的化したテロ続き」と。昨夕に続きホテルのクラブラウンジで軽く食し夕食代はり。周末のためか子連れ客多く躾けの悪さに親に呆れて言葉もなし。このラウンジのワインが智利産だがお世辞にも美味いとは言へず泡物もなくジョニ赤のウヰスキー二、三杯飲んだら睡魔に襲はれ晩八時過ぎには臥床。
魯迅の日本語による書簡は全集で1914年に支那文学者の青木正児(同志社)や山上正義らに宛てたものから始まり1930年代になると頻繁に書簡の往来あるのは支那文学の増田渉(1903〜1977)や歌人の山本初枝(1898〜1966)となる。増田とは魯迅の作品の和訳などで「稀鬆」などと言った比較的容易な訳についても説明あるのが意外。最後にある手紙が1936年に内山完造に宛てた10月18日のもので前夜から喘息ひどく内山との午前十時の約束の取り消しと佐藤医師(佐藤五百三、元軍医、朝鮮の道立医院の委員長、1917年に来華、上海で開業)による往診を請ふもの。